ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第15話「行き先」約4000字/全17話/創作大賞2024恋愛小説部門
私はしばらくお店のドアの前で呆然と立ち尽くしていた。
「……え? あ、あれ?」
状況をつかもうと、目玉がひとりでにきょろきょろと動いた。
「……ん?」
中で物音がした気がした。
私は周囲を伺う。
別に、悪いことをしている訳じゃない。私は元アルバイトだし。そうやって自分に言い聞かせ、ドアノブに手を掛けると、鍵が掛かっていなかった。私は恐る恐るドアを開けた。
店内は照明が消されており薄暗かった。一週間振りに訪れた店は、懐かしいような、私が知っている場所ではないような、不思議な感覚がした。
カウンター席に一人の男性が座っている。テーブルには、赤いバンダナが置かれている。
ドアを閉め、中へ入る。BGMが流れていないため静かだ。私が歩くと床が小さく軋んだ。
男性はテーブルに肘を付き、あごに手を当てたままこちらを振り返った。
「菜々恵ちゃん」
「大樹さん……」
大樹さんは体をこちらへ向け、緊張感なく手を振った。
私は床に荷物を放り、一歩大樹さんに近寄った。
「た、大樹さん。お店、どうして閉店してるんですか? 大和さん……マスターは、どうしたんですか?」
大樹さんは眉根を寄せて笑った。
「まぁまぁ落ち着いてよ」
彼は再びカウンターの方へ向き直り、コップの水に口を付けた。
「……大樹さんは、ここで何してるんですか」
落ち着いてなどいられない。私は質問を変えて彼の背中に投げ掛けた。
「菜々恵ちゃんが来るんじゃないかと思ってね。待ってた」
彼はコップを置いて言った。
「な……どういうことですか、それ」
「ごめんごめん、半分冗談」
半分冗談ということは、半分本当ということか。
「お店は今日からお休みだよ。表に貼り紙があったでしょ」
それを聞いて私は入り口まで戻りドアを開けた。たしかにそこには、貼り紙があった。
私は店内に戻り、大樹さんに駆け寄った。
「あんな貼り紙、私、知らない。前はなかったのに……」
「今日急に貼られたんじゃないよ。今週に入った辺りからかな、ずっと貼ってあったんだけど」
私のアルバイトが終わったタイミングということか。
私は、木曜日に大和さんと出掛けた際の待ち合わせ場所がお店の前ではなかったことを思い出した。
「菜々恵ちゃんに、わざと知らせないようにしてたんだろうなぁ。嫌な奴だよ」
「……大樹さんは、知ってたんですか」
大樹さんは私と目を合わせず、カウンターの奥のキッチンをぼんやり見つめた。
「そうだねぇ……、俺もまぁ、嫌な奴だよな」
私は下を向いた。テーブルに置かれた赤いバンダナが目に入った。
「大和さんは……」
「あいつなら」
大樹さんの視線もバンダナへ注がれる。
「ついさっき、新千歳空港に向かったよ」
「空港……?」
コップの氷が、からんと小さな音を立てた。
「大和さん、どこか行っちゃうんですか?」
「帰るんだよ。あいつの故郷に」
「え……大和さんって、札幌出身じゃないんですか?」
「何だ。あいつ、そんなことも教えていなかったのか」
大樹さんは耳のうしろをぽりぽりと掻いた。
「……どこなんですか。大和さんの故郷って……」
「ん? 鹿児島だよ」
私はまるで頭を小突かれたように目をしばたたかせた。
鹿児島……。九州の南の果て。日本の北の果てである北海道とは、反対ではないか。一体移動するのにどれくらいの時間が掛かるのだろう。私には見当がつかなかった。
言葉を失った私を一瞥した後、大樹さんは斜め上を見上げて話し始めた。
「この時期にお店を閉めることは、もうずっと前から決まってたんだ。菜々恵ちゃんがアルバイトに来るよりも前からね」
そんなに前から?
私は驚いたが、振り返ってみると合点がいく。この時期にお店を閉める予定があったから、アルバイトは一ヶ月限定にしようと提案したのかもしれない。
大和さんはコップの氷に視線を下ろし、話を続けた。
「今年の三月にね、大和の親父さんが倒れたんだ。脳梗塞って言ってたかな。死にはしなかったけど、麻痺が残ったらしい。右だったか左だったか、体の半分が動かしにくいんだってさ。その時にも一度大和は店を閉めて鹿児島に帰った。それから……親父さんは三ヶ月間入院してリハビリ生活を送ることになった。入院中は病院の人がいてくれるけど、その後の生活には不安があったから、大和は退院のタイミングでもう一度鹿児島へ帰ると決めていたんだ。それがつまり、今日って訳だ」
大和さんは背中で私の反応を伺っているようだったが、私が何も言えずにいると、再び口を開いた。
「大和の親父さんは建設会社の社長でね、昔から大和が跡を継げって言われていたんだ。大和はそれを無視して北海道でスープカレー屋を始めた訳だけど、親父さんが倒れたことをきっかけに、改めて会社を継ぐことについて考え直したらしい」
私は理解するのに精一杯で、ただただ大樹さんのかたわらで立ち尽くしていることしかできなかった。
話の内容にも衝撃を受けたが、私は大樹さんについて何も知らなかったということがショックだった。
「……ちなみに俺はね、三月までここの従業員だったんだけど、大和が最初に鹿児島へ帰って、そんで札幌へ戻ってきた時に、クビになったんだ」
大和さんは下を向いた。薄暗いせいもあって表情がよくわからなかった。
「突然お店を休みにして迷惑を掛けた。今後もいつ休みにしなきゃいけなくなるかわからない。もしかしたらお店は続けられないかもしれない。自分の都合で振り回したくない……って言ってね」
「お店を続けられないって……お休みするんじゃなくて、完全にお店を辞めちゃうってことですか?」
大和さんは私の質問が聞こえていなかったかのように、ゆっくりとした動きでコップを持ち、そして水を飲み干した。
私はそれを見ていたが、名前を知らない感情が体の底からふつふつと込み上げてきて、じっとしていられなくなってしまった。回れ右して床に置いてあった荷物を拾い上げる。入口へ駆け出そうとする私を、「おい」と大樹さんが呼び止めた。
「どこ行くんだよ」
「どこって……」
私は乱暴に眼鏡を押し上げた。
「大和さんのところです!」
大樹さんはのっそりと体をこちらへ向けた。
「……あいつのところに行って、鹿児島へ行くなって言うのか? それともお店を辞めるなって?」
足が勝手にあとずさりそうだった。私はそれを何とか堪えた。
「そ、それは……私からそんなこと言うつもりはありません。でも、私……今日はあの人と絶対にちゃんと話をするって決めてきたんです! 直接会って話がしたいんです! だから……空港でも鹿児島でも、どこまでも追い掛けます!」
大樹さんは私の言葉を聞いて満足気に頷いた。かと思うとあごに手を当て、そして鼻から大きく息を吐いた。
「……今から札幌駅に向かって空港行きの電車を待つつもり?」
大樹さんはポケットから車の鍵を取り出し、私に見えるようにそれを揺らした。
「それって……スープカレー号の……」
私が言うと、大樹さんはにんまりと笑った。
「カボチャ号だ」
駐車場に停めてあった黄色いトラックの助手席に乗り込むと、先に乗っていた大樹さんがスマートフォンを何やら操作していた。
「送っといた。大和に。今から菜々恵ちゃん連れてくって」
大樹さんはスマートフォンを放り投げ、エンジンを掛けるとほぼ同時に車を発進させた。軽トラックが車の間を縫うようにして街の中を進んでいった。
「それにしてもさぁ、すごいよなぁ」
高速道路に入ったところで、大樹さんは口を開いた。
「最初に菜々恵ちゃんが来た時には、へろへろでさ。何にもできない生まれたての雛みたいだったのに。今じゃこんなにパワフルになっちゃって」
ちらりとこちらを見やり、「やっぱり大和が作るカレーは、魔法のカレーだったみたいだな」と言い、再び進路に目を向けた。
高架を走る車の窓からは札幌の街並みがよく見えた。父が運転する車に揺られてこの街に来た時にも、こんな感じで景色を見たっけ、と私は思った。
「……私、初めてKIBAに行った時は、五月病みたいな感じだったんだと思います。四月に環境が変わって、頑張りすぎて疲れちゃって……。あのままだったら、大学を続けられていなかったかも。弱っていた私は、大和さんに救われたんです」
「……それはあいつも同じかもな」
大樹さんは窓枠に肘を置き、指であごひげをさすった。
「大和も弱ってたんだよ、あの時は。三月に親父さんが倒れて、それから一人きりでお店を切り盛りしてた訳だからな。今日を待たずにお店を閉めてもおかしくなかった。そこに菜々恵ちゃんが現れて、あいつが作るスープカレーを大好きになってくれた。それが嬉しかったんだろうな」
いたずらっ子のような笑みで大樹さんは一瞬だけ私の顔を覗き込んだ。
「菜々恵ちゃんが来た日、あいつ、客席に座ったでしょ。あれって単に、ゴールデンウィークの最終日で疲れ果ててたからかもな」
私が「また半分冗談ですか?」と聞くと大樹さんは「半分本気だよ」と答えた。
それから大樹さんは「俺をクビにした癖に菜々恵ちゃんを雇ったときはびっくりしたけどな」と言って笑った。
「あー……ついでに俺の話をするとさ。大和の都合で俺はクビになった、みたいな言い方してるけど、ホントは俺の都合でもあるんだよね」
私は大樹さんの横顔を見た。
「大和も今回親父さんと仕事のことを話すのかな……。でも俺も自分の親父とちゃんと話さなきゃいけないことがあるんだ。俺の親父はかぼちゃ農家なんだけどさ。俺はね、ホントは跡を継ぎたいんだよね。でも、それが言い出せない。昔からいっつもふらふらしてたから、今更大真面目に跡を継ぎたいだなんて、似合わない気がしてさ。そうやっていつまでも俺が中途半端なままだから、大和は俺を辞めさせて、きっかけをくれたんだ」
「……それで、三月にKIBAを辞めてから、お父さんとは話をしたんですか?」
「いやぁ、まぁ、まだなんだけど……」
普段陽気な大樹さんが気まずそうにしているのが何だかおかしかった。私が笑うと、大樹さんは唇を捻じ曲げておどけた。
「でもまぁ……俺も頑張んないとな」
大樹さんは後方を確認し、右車線へハンドルを切った。
私は「頑張って下さい」と言った。