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ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第16話「青空」約4000字/全17話/創作大賞2024恋愛小説部門




 黄色い軽トラックは高速道路を進み、やがて札幌市を出て、木々の中を通り、田畑の間を走り抜けた。

 空港の駐車場に関する標識を見上げ、大樹さんは「混んでそうだなぁ」と声を漏らした。

 そして空港へ着くなり、国内線ターミナルの入り口にある車寄せにトラックを横付けした。

「菜々恵ちゃん、先に行って。俺も駐車したらすぐ追いかけるから」

「大樹さん、ありがとうございます」

 私はお礼を告げると、シートベルトを外し、トラックから飛び降りた。

「菜々恵ちゃん」

 私がドアを閉めようとした時、大樹さんは助手席に手をついてこちらに身を乗り出してきた。

「頑張って」

 私は頷き、ドアを閉め、駆け出した。

 空港へ入り、私が周囲を見渡していると、うしろから声がした。

「菜々恵さん」

 振り返るとそこには大和さんが立っていた。

 そして、手に持っていたものを私に差し出した。それは、カップに入ったアイスティーだった。反対の手には、オレンジジュースを持っていた。

 買ってからしばらく経ったのだろう。氷の入ったカップの側面には、たくさんの水滴がついていた。








 ついてきて、と大和さんは言った。口元はいつものように微笑んでいたが、目を合わす間もなく彼は歩き始めてしまった。エスカレーターをいくつか上り、私達は屋上にある展望デッキへと出た。

 フェンスの向こうに飛行機が並んでいるのが見える。飛行機が一つ、轟音と共に滑走路を加速し、空へと舞い上がっていった。

 空はどこまでも青い。それが空であることや、それが青であることがわからなくなりそうなくらいに。

 太陽は私達の真上にあった。もうすぐ夏だよとこちらを見下ろしていた。私は眩しくなって目を逸らした。

 前方の景色は、地平線が見えるとまでは言えないが、近くにはビルや山などの視界を遮るものがなく、ずっと先まで開けている。ここからどこへだって飛んでいけるのだと、否が応でも実感させられる程に。

 大和さんは私の横に立ち、無言のままオレンジジュースに口をつけた。

 私は喉が渇いていたので、すぐにアイスティーを飲み干してしまった。大和さんもそれに習い、すぐにカップを空にした。大和さんは私のカップを受け取り、近くにあったゴミ箱へと捨てた。

 ごめん、と彼は言った。空港の喧騒と風の音にかき消されそうな小さな声だった。

「大樹から色々聞いたのかな。……でも、ちゃんと僕の口から説明しなきゃね」

 彼はフェンスの方へ歩み寄りながら話し始めた。

「僕は、ここから遠く離れた、鹿児島の出身なんだ。山と海に囲まれて暮らしていた。父さんは建設会社の社長で、僕は、子供の頃からお前が跡を継ぎなさいって言われて育った。将来社長になることが決まってるなんて羨ましい……って周りの友達は言ってたけど、バカにされているような、申し訳ないような、複雑な気分だった。昔気質の頑固親父に大人の都合で自分の未来を決められたことが、僕は、嫌だった」

 大和さんはフェンス越しに飛行機をじっと眺めながら、静かに、少しずつ、言葉を紡いでいった。

「北海道のことが特別好きだった訳じゃないけど、とにかく遠くへ行きたかった。だから北海道の大学を受験した。勉強したいことがある訳でもなかった。ただ、実家を出られたらそれでよかった」

 彼の指がフェンスを優しくつかんだ。

「札幌の大学に入学して、北海道のことが好きになって、スープカレーに出会って……。母親と連絡は取っていたし、たまに帰省はしてたけど……ほとんど親に相談もしないままスープカレー屋で働き始めた。親のお金で大学に通わせてもらっていたのに、まともに就職しなかった訳だから……怒ってただろうな。それとも……呆れてたかな。自分のお店を開いてからは、いよいよ気まずくなっちゃって。忙しいって言い訳して、もう何年も鹿児島へは帰っていなかったんだ」

 彼はくるりと身を翻し、滑走路に背を向けると、フェンスにそっともたれかかった。

「父さんが脳梗塞で倒れたって聞いた時はビビったよ。親って、生まれた時からそこにいるのが当たり前だから、ずっといるもんだと勘違いしてたんだろうな。そんな訳ないのにね。父さんが死ぬかもって思ったら、急に怖くなったんだ。まだ何にも親孝行してないぞって。やっぱり会社を継ごうかな、なんて、今更思ったりして。身勝手だよね」

 まつ毛の影が大和さんの顔に落ちるのを、私は見ていた。

「思い切って父さんに相談したら、怒鳴り付けられたよ。麻痺のせいで呂律が回ってないのにさ。めちゃくちゃ怖かった。当たり前だよな。今まで建設のことなんてちっとも経験していない若僧が、今更自分の大切な会社のことを偉そうに心配するんだから。そりゃあ怒るよな」

 彼は小さく笑った。

 太陽が薄い雲に隠れたらしく、少しだけ日差しが弱まった。急な暗さに目が慣れず、私は彼の表情を見失った。

「僕はどうしていいのかわからなかった。そのまま鹿児島に住んで父さんや母さんを支えた方がいいのかとも思ったけど……母さんからも『今はここにいてもやることはないよ』って言われて……結局僕は病人に怒鳴られただけで、札幌へ戻ってきた。その頃は、何かやらなきゃって思うのに、何もできなくて……。大樹にも迷惑掛けたな。周りが見えなくなっていた。……でも」

 フェンスから身を起こし、彼はゆっくりとこちらに体を向けた。

「でも……菜々恵さんと会って、思い出したんだ。やっぱり僕はスープカレーが好きなんだって。僕の居場所はここなんだ。僕がやるべきことは、美味しいスープカレーを作ってみんなに食べてもらうことなんだって。菜々恵さんと話しているうちにわかったんだ」

 突風が、彼の髪を掻き乱す。

「もちろん、父さんが今どんな状況なのかは実際に見てみるまでわからないし、今後またいつ倒れるかもわからない。それでも、あらゆる可能性を考えようとしていたら前に進めない。だから、少なくとも、今は」

 彼は私の目を見て、優しく微笑んだ。

「僕はこの先もずっと北海道で、スープカレー屋を続けていくつもりだよ」

 溢れる感情が彼の顔をわずかに歪めていた。それでも、瞳の奥に、私が憧れたあの輝きが宿っているように見えた。

「今まで父さんには面と向かってお店の話をしたことはないんだけど、今回はちゃんと話をしてこようと思う」

 乱れた髪を、彼は少しだけ触った。

「菜々恵さんに話すのが遅くなってごめんね。本当は今回鹿児島で父さんの状況を見て、それから菜々恵さんに伝えるつもりだったんだ。余計な心配も、余計な期待もさせたくなくて。自分勝手なスケジュールだけどね」

 彼は俯いて笑う。

「でも菜々恵さんが、僕の予想を超えるスピードで行動するから、びっくりしたよ」

 それからもう一度まっすぐに私を見つめた。

「菜々恵さん、もう少しだけ、待っていて下さい。……もしよかったら、一週間後、今度の日曜日、お店に来てくれませんか?」

「……ずるいなぁ」

 ようやく私の口から出てきたのは、相槌でも返事でもなかった。私は自分の感情を探すように足元に目線を這わせた。

「そんなこと言われたら、待つしかないじゃないですか。私、本当は今日、何が何でも大和さんに全部伝えようと思ってたんですよ? この前お出掛けした時に……伝えられなかったことを……」

 もうすぐまた一機飛び立つのだろう。ジェットエンジンの音が徐々に大きくなっていくのを感じた。

 顔を上げ、私は言う。

「大和さん。わかりました。私、待ってます。必ずまた、札幌に戻ってきて下さい」

 大和さんは歯を食い縛っているような、切ない表情で頷いた。

「そしたら、その時は、大和さんに、私……」

 私が言いかけたその時、大和さんが私の方へぐっと近付いてきた。

 また、口を塞がれてしまうのだろうか。

 そんなことを考えていた。でも違った。

 ごうっと飛行機が飛び立つ音が聞こえた。

 気付いた時には大和さんの腕の中に私はいた。彼は私をぎゅっと抱き締めていた。

 吹く風が私達を優しくくるむ。

 温かくて、懐かしい感じがした。

 太陽がまた雲から顔を出したのだろう。日差しがぱっと強くなった。今から夏だよ、と太陽が言っているような気がした。

 私の体からは少しずつ少しずつ力が抜けていった。まるで、山頂に残っていた六月の雪が溶けていくように、じんわりと。私は大和さんに身を預けた。

 彼の肩越しに、長い髪の毛がふわふわと揺れている様を、眺めていた。

 やがて、彼の腕からも力が抜け、私の体からそっと離れた。

「そろそろ行かなくちゃ」

 彼は笑う。ああ。私も、笑いたいな。

「……大和さん」

「ん?」

「……来週の日曜日、スープカレーを作ってくれませんか? 私、今日も本当は食べたかったんです」

「……わかった。飛び切り美味しいスペシャルカレーを作るよ」

 私は首を振る。

「いつものカレーが食べたい」

 私が笑う。彼も笑う。

「わかった」

「大樹さんも、呼んで、みんなで食べたい」

「うん、そうだね」

 彼はそう言うと、荷物を持って歩き出した。

 彼が旅立ってしまう。こんな時、何て声を掛ければいいんだっけ。

 私は大きく息を吸い、遠ざかっていく彼の背中に向けて声の限りに叫んだ。

「けっぱれ!」

 彼が驚いてこちらを振り向く。

 私は握り拳を作って彼に向けて掲げる。

「……北海道弁で、頑張れって意味の言葉です。父が私に、掛けてくれた言葉です」

 彼は大きく頷き、再び前を向き、そして空港の中へと消えていった。

 私はそれを見送った後、フェンスの向こうに目をやった。

 飛行機が飛んでいき、降りてくる、その様子をずっと、ずっと、眺めていた。

 どれが彼の乗る飛行機なのか、もう飛び立ってしまったのかもわからない。

 それでもただ、そこから見える景色を眺め続けていた。













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