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ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第10話「アルバイト最終日」約3500字/全17話/創作大賞2024恋愛小説部門




 私がアルバイトを始めてから、一ヶ月が経とうとしていた。札幌の町ではライラックが咲き、そして散った。外出の際の上着は必要なくなった。

 大学の同期の女の子達は、入学当初は「みんなで仲良くしようよ」という雰囲気だったが、徐々に数人のグループに分かれていった。

 真っ先に集団行動から抜けたのは、私が憧れている女の子、森さんだったように思う。彼女はゴールデンウィーク明け、毛先を青く染めた。誰かが彼女を誘っても、「バイトがあるから」「お金ないから」と断るようになった。それでも一緒にいる時は気さくに会話に混ざっている。みんなから嫌われている様子はなく、むしろ誰からも彼女の生き方を認められているようだった。私は益々彼女に憧れた。

 私はみんなからたまに声を掛けてもらうものの、少しずつ一人で過ごすことが多くなっていった。一人でいることはそこまで苦痛ではなかった。ただ、一人でいるところを見られる気まずさと、本当にこのまま大学生活を過ごしていくのかな、という不安が時折私を襲った。

 KIBAでのアルバイトは一ヶ月限定の予定だったから、次のアルバイトを探さなきゃと思った。スマートフォンで調べてみたが、どれもピンとこなかった。みんなから食事や遊びに誘われなくなった分、お金の浪費は減っていたこともあり、アルバイト探しには身が入らなかった。

 週末だけのアルバイトだったが、KIBAでの仕事に私は慣れていった。レジ打ちも、まずは市来さんに教わりながら行い、そして、一人でやる許可をもらった。仕事を覚えていくにつれ、市来さんが言っていた「最初だから」という言葉の意味がわかってきた。慣れとは非常に大切なようだ。皿洗いは手際よくこなせるようになったし、接客の際は考えなくとも言葉が出てくるようになった。

 料理にも興味が沸いて、改めて自炊に挑戦してみた。でもカレーは何となく作らなかった。

 一人で過ごすことが多くなった分、私は趣味を楽しんだ。市来さんが認めてくれた趣味なんだぞと思えば孤独でも怖くない気がした。

 一度読んだものだったが、背表紙に朱色でタイトルが書かれた少女マンガを、私は少しずつ読み進めた。

 鏡を見る時間が長くなった気がする。もう少しちゃんと化粧を覚えなきゃな。すぐにずり落ちてくる眼鏡を睨む。フレームが歪んでいるのだろう。今度直してもらいに行かなくちゃと私は思った。

 大樹さんはよくお店に顔を出した。水を飲み、私をからかい、カウンター席でだらだら過ごしていた。時々キーマカレーを頼んで食べていた。

 私は時々町で見かける他のスープカレー屋さんに興味をそそられながらも食べに行くことはなかった。その分、私はアルバイトの度にまかないとしてスープカレーを作ってもらった。毎回同じ角煮カレー。市来さんはカレーを食べたり、そばを食べたり、色々とメニューを変えていた。

 そしていつも仕事が終わると市来さんは私を家まで送ってくれた。

 市来さんはあの言葉を忘れてはいなかった。前田森林公園で私に言った「次にお出掛けする時は福島さんが好きな場所に連れて行って」という言葉だ。

 ある日、仕事の後、二人でまかないを食べていると市来さんが「本屋さんとかどうですか?」と提案した。

「そうだ。そこで僕に、福島さんのおすすめのマンガを教えてくれませんか?」

「……いいですけど」

「札幌にはたくさん本屋さんがありますよ。どこか、行きたい本屋さんはありませんか?」

 私はすぐに思い至った。

「たしかに……帯広にはなかったような、マンガが中心の本屋さんがあるらしいので……そこは行ってみたいと思っていたんですけど……」

「まだ行ったことはないんですか?」

「はい、まぁ。ちょっと、勇気が出なくて……」

「じゃあこの機会に行ってみましょう」

「いやいやいや! マスターみたいな人を連れて行くようなお店ではないというか……」

 市来さんは無垢な表情で首を傾げた。

「やろうと思っているのに行動に移せていないことって、こういう機会に誰かと一緒にやっちゃった方が実現できるもんですよ。それに、福島さんが好きな場所に連れて行ってもらう約束ですから」

 その場ではとりあえず「考えておきます」と答えておいた。

 出掛けること自体はとても楽しみだった。しかし、市来さんと私の予定がなかなか合わなかった。市来さんの休みは月曜日か木曜日。そして私は平日は大学がある。大樹さんが以前忠告した通りだと思った。

 六月の中旬、金曜日から日曜日までの三日間、私の大学では学校祭がある。その準備のため、前日木曜日は講義が半日で終わることになっていた。みんなは模擬店の支度などで忙しいのかもしれないが、私はサークルに所属していないため特にやることがない。なので、その日の昼過ぎから市来さんと会う約束をした。

 二人で出掛けるのが六月の第二木曜日。

 そして私がKIBAでアルバイトをする最後の日が、その四日前、六月の第二日曜日だった。







 アルバイト最終日は、札幌で毎年行われているYOSAKOIソーラン祭りの最終日でもあった。しかし、夕方から雨が降ってきた。小雨だったためイベントはどうにか決行されたようだが、雨から避難するようにして濡れたお客さん達が大勢お店へやってきた。大樹さんが「一ヶ月のアルバイト、お疲れ様」と私に言いに来てくれたが、居場所がないためすぐに帰ってしまった。店に来る人の中には、恐らくお祭りで踊ってきたらしい派手な衣装の人もいれば、お祭りを見に来たのか観光客と思しき方々もいた。誰も彼も気分が高ぶっているようで、その日は特にお店が騒がしかった。

 そのせいか、人がいなくなったが店内は、ひどく静かに感じられた。どうやらお祭りも終わったようだ。

 私はその日も角煮カレーを食べた。お店を出る前に、市来さんが改まった様子で私の前に立った。

「一ヶ月間、お疲れ様でした」

 そう言って封筒を私に渡した。

「お給料です。手渡しで申し訳ないけど」

 市来さんは頭を掻いた後、「でもこれで明日すぐにマンガを買えるね」と笑った。そして、握り拳を見せて「頑張りましたね」と言った。

 ドアを開けると濡れたアスファルトの匂いがした。雨はまだぱらぱらと続いている。

 隣で傘を開く音がする。

「傘、持ってきた?」

 市来さんが私に聞く。

「えっと……」

 彼は傘の下で優しく微笑んでいる。

「あ……えっと……折り畳み傘、持ってきたので」

「そっか。じゃあ行こうか」

 市来さんは雨の中へ歩き出した。

 私は市来さんのうしろに続いた。

 市来さんはすっかり私の家までの道のりを覚えたようで、どんどん先へと進んでいった。私は横に並ぼうと思って足を速めたが、前から人がやってきてしまった。それぞれが傘を広げているから、擦れ違うには道幅が狭い。私は再び市来さんのうしろへついた。彼の姿が、私の傘と、雨と、市来さんの傘の向こうに見える。頭のうしろで少し長い髪がさらさらと揺れていた。

 水溜まりに反射する信号の色が変わる。彼は足を止め、私の方を振り返る。

 私は口を開き、そして口をつぐむ。静かな雨音が、うるさ過ぎる。

 信号が青に変わり、また彼は先に歩き出す。私はそれに続く。

 家の前に着き、彼は「それじゃあまた木曜日に」と言った。私は「はい。また木曜日に」と答えた。







 私は部屋に着くなりベッドに倒れ込んだ。

 ああ、と思った。

 一ヶ月限定のアルバイトが今日終わった。疲労感がある。達成感がある。だがそれよりも、もっと大きな感情がある。

 これで私と市来さんは、店長と店員の関係ではなくなった。今までは特別な理由がなくとも仕事があるから会えていた。だけど、これからはもう、そうはいかないのだ。

 これから私はお客さんとして、たまにKIBAにスープカレーを食べに行くのだろう。私と市来さんは、店長とお客さんの関係に戻るのだ。私はカレーを食べ、会計を済ませた後、彼と少しだけ会話をして、そして家に帰るのだ。今彼と歩いてきた道を、今度は一人きりで。

 頭の中でこの一ヶ月間の記憶がぐるぐる巡っていた。

 市来さんの笑顔、市来さんの髪、市来さんの手、市来さんの声、そして、好きなものを語っている時のきらきらした瞳……。

 ああ。

 私も、私が好きなものを語ってもいいだろうか。マンガが好きだと打ち明けたあの時のように、彼は優しく聞いてくれるだろうか。

 私は立ち上がり、本棚から一冊のマンガを取り出した。背表紙に朱色でタイトルが書かれた少女マンガの、第八巻。その最後のページを開くと、主人公の女の子が意を決して男の子に話し掛けていた。

『私、君のことが……』

 私はベッドサイドの棚にマンガを積み重ね、再びベッドへ寝転がった。

 ああ。

 私は、彼のことが、好きだ。










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幸野つみ
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