ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第4話「マスター」約4000字/全17話/創作大賞恋愛小説部門
「羨ましいです。大好きなものがあって、それを堂々とお話できるっていうのが……」
私は一体、何を言っているんだろう。きっとこのお店が居心地良過ぎるせいだ。
私は回らない頭で責任を自分以外に押し付け、話し始めた。
「私はダメなんです。みんなはそれができるのに。好きなドラマ、好きな音楽、好きなお洋服……大学で出会った女の子達はそれぞれ楽しそうにお喋りしてるのに、私はそれについていけないし……。私の好きなものを聞かれても……うまく話すことができなくて」
タイキさんが「ふうん」と呟く。
「何なの? 好きなものって」
「え……いや、全然大したものじゃないので……」
「それは好きなものに対して失礼じゃない?」
タイキさんは怒っている様子ではなかったが、その言葉は私の胸にぐさりと刺さった。
「……そうですね……すいません」
「いやぁ、俺に謝んなくていんだけどね。まぁクラスの友達にも話せてないのに初対面の俺に話せってのは無理があったね。ごめんごめん」
タイキさんは笑顔のままで手の平をひらひらと振った。
「……友達……になれてるのかな」
一瞬、沈黙が流れた。BGMだけが聞こえていた。
「クラスの子と、ってこと?」
「すいません、こんな話」
「いんじゃない? 知らない人の方が話しやすかったりするもんだよ」
と、タイキさん。
「ええ。一人暮らしだと、相談する相手もいないんじゃないですか? もし僕達でよかったら聞かせて下さい」
と、マスター。
私は空になった器に目を落とし、言葉を選んだ。
「……頑張ってみんなの話題についていこうとは思うんですけど」
「そんな、無理についていこうとしなくてもいいんじゃないの?」
「うん。そうですね。それに、大学というのは色んな人がいますから、きっと同じ趣味の人だっていると思いますよ」
「……憧れている女の子はいるんですけどね。その子は私が大好きなお話に出てくるキャラクターのストラップを鞄に付けていて。私にはそれすらとても羨ましいんです。私は付けたくても……なんだか、そういうの、できなくて」
私は言いながらその子のストラップを思い浮かべた。オレンジ色でまん丸のかわいらしいマスコットキャラクターが、嬉しそうに揺れていた。
「なるほどね」
「きっと、人の目を気にしちゃうんでしょうね」
「そう……かもしれないです。その上その子は……」
その上その子は、同期の集まりの中で、他の女の子の趣味の話にも加わりその場を盛り上げていた。そしてその子自身が好きなものを聞かれた際には、堂々と自分の趣味を語っていた。みんなは「へえ」「知らない」などと言うだけで反応が薄かったが、それでも気にせず「そうだよねー」と笑っていた。その時私が「私もそれ好きだよ!」と言えていたらよかったと思う。その子のためにも、自分のためにも。でも、私にはそれができなかった。
私の言葉が途切れると、マスターはおもむろに立ち上がった。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか? あ、飲めますか?」
私は一瞬戸惑ったが、二択にしてくれていたので答えを選ぶのにはあまり迷わなかった。
「じゃあ……紅茶で」
マスターは食べ終わった後の器を回収して奥へ下がり、しばらくしてから右手にティーカップを、左手にコップを持って戻ってきた。
「これ、サービスです」
「え、いえ、そんな」
「タイキの奢りです」
「俺の奢りかよ! いいけど!」
タイキさんは楽しそうだった。マスターはにこやかな顔で私を見て頷くと、ティーカップをテーブルに置いた。
「これ」
マスターは左手のコップを少し上に掲げてみせた。
「オレンジジュース。僕、オレンジジュースが大好きなんです。子供っぽいと思うけど、好きなものは変えられないので。今でも飲食店に行くと頼んじゃうんですよね」
そう言って笑うと、マスターは立ったままオレンジジュースを一口飲んだ。
「ちなみに俺は水が好きだから、水を飲んでる。どう? 変わってる?」
ニヤリと笑い、タイキさんもコップに口を付けた。
私もつられて笑い、そして紅茶を口に含んだ。
私はこっそりとマスターを見上げた。
この人もあの子と同じ。自分の「好き」を語れる人だ。
できることなら、もっとたくさんこの人とお話ししたい。そう思った。
マスターが私の視線に気付く。そして、にこりと微笑む。私はどきりとして視線を逸らす。
「あの……長々とお話してしまって、すいませんでした」
マスターはコップをテーブルに置き、「いえ」と返事をする。
「ゴールデンウィークが終わったらまた大学が始まると思いますが……」
マスターは握り拳を作って私の方へ向けた。
「頑張って下さいね」
私は最初、きょとんとしてしまった。こんなにも真正面から「頑張れ」と言われたのは久し振りな気がした。いや、どうだろう。あれは、そうか、私が一人暮らしを始めた時か。両親が掛けてくれた言葉が脳裏に蘇ってきて、私は俯いた。
「……ありがとうございます」
私は眼鏡の位置を正し、伸び過ぎた前髪に触れた。
マスターは拳を下ろし「大変ですよね」と続けた。
「色々と考えなきゃいけないことがあって。初めての土地で、初めての一人暮らしで、初めての大学生活で……」
「……そうですね……みんなと遊んでいたらお金もなくなってきちゃって……アルバイトも探さなきゃいけないと思ってるんですが……すぐに見つかるのかもわかないし……」
「そうですか……」
マスターは私の言葉を聞くとあごに手を当てて何やら考え込んだ。それを見たタイキさんはぎょっとした様子だった。
「おい。お前また変なこと考えてるんじゃないだろうな」
マスターはタイキさんの言葉を気にせずもう十秒考え続けていたが、私が「あのー……」と声を掛けると、うん、と頷き、こちらを向いた。
「もしよかったらここで働いてみませんか?」
「え?」
今度は私がぎょっとした。
「ほらやっぱり……」
タイキさんがうなだれる。
マスターは続ける。
「最低賃金でもよければ、まかない付きで。アルバイトも初めてでしょうから、無理のない回数で」
予想だにしない提案だった。一瞬頭が真っ白になった。真っ白になった頭でぐるぐる考えながら、それでも慌てて両の手を振った。
「いえ、でも、あの」
「この前俺をクビにしたばっかりだろ?」
「それはお前の都合でもあるだろ?」
「そうだけど、何もこんな時に……」
「え? え? え?」
私が戸惑っていると、タイキさんはそれに気付いて「ふー」と溜め息をついた。
「別に悪い店ではないよ。こいつもいいやつだよ。でもね、急いで決める必要はない。じっくり自分に合ったバイトを探したっていいんだよ。それに、この店はさぁ……」
私はマスターとタイキさんの顔を見比べた。
タイキさんは何か言いたげな表情でマスターを見た。マスターはタイキさんの言いたいことを飲み込んだようで、首を縦に振って見せた。
「もう一つ条件がある」
マスターが人差し指を立てて私に言った。
「期間は一ヶ月間限定。うちの都合でね、アルバイトしてもらえるのは六月中旬くらいまで。それまでに、時間を掛けて他のバイト先を探したらいいよ」
私は考えた。なるほど。期間限定と思えばこちらとしても気が楽かもしれない。マスターとしては、私が気に入るような仕事ではなかったとしてもすぐに次のアルバイトに切り替えられる、という意味で言っているのだろう。が、私としては、面接もなしに採用した私が例え使い物にならなかったとしても、マスターに気を遣わせることなく自動的にクビにしてもらえる、と思えた。
「それに……」
私が考えていると、マスターは言葉を続けた。
「せめてお金の不安くらいは取り除いてあげたくて。友人関係のことなんかは、僕は力になってあげられないから」
マスターは優しく微笑んだ。
春のような微笑みだった。白一色だった冬の景色が、雪が溶け、緑が芽吹き、花が咲き、色付いていく。温かくて、これから何かが始まる予感がする。そんな微笑みだった。
私はテーブルに置かれたオレンジジュースに目をやった。マスターが大好きなオレンジジュース。そして、目をつぶり、鼻から大きく息を吸い込む。満腹でもなお食欲をそそるようなカレーの香り。マスターが大好きなスープカレー。
友人関係のことなんかは力になれない。そうマスターは言った。でも、好きなものを好きと言える彼と一緒にいれば、そういった問題まで解決していけるような、そんな気がした。
私は目を開けて立ち上がった。ガタンと椅子が大きな音を立てた。
「よ……よろしくお願いします!」
私は思い切り頭を下げた。
しんとする中でおずおずと頭を上げると、タイキさんは苦笑しながらも「まぁいんじゃねーの」と言った。
そしてマスターはにこにこしながら頷き、「よろしく」と言った。
タイキさんは「それじゃあ頑張ってね」と言って帰り支度をした。私が感謝を告げると、「今度会う時は俺がお客さんでそっちは店員さんだね」と言ってニンマリと笑った。
二人きりになった後、私とマスターは簡単にアルバイトの話を済ませた。まずは今から丁度一週間後、次の日曜日にお店に来ることになった。
「それじゃあ…た、そろそろ…」
私は冷めた紅茶を飲み干し、身支度を整えた。
一週間後からこのお店で働ける。そう思えばとてもワクワクして、ゴールデンウィーク明けの大学生活も乗り切れる気がした。だが、今日これからまた一人暮らしの部屋に帰ると思うと、途端に名残惜しくなってきてしまった。それくらい、このお店は居心地がよかったのだ。
「あのー……本当に今日はありがとうございました。もうお店が閉まる時間なのにずっと話してしまって……アルバイトまで。あ、あと……スープカレー、ごちそうさまでした。本当に美味しかったです……本当に、本当に……」
「そっか。よかった」
マスターは変わらない調子だった。
それに対して、私は、もう、どうかしていたのだ。
「今度、おすすめのスープカレー屋さん、教えてあげるね」
ほら、また。彼は弱っている私には優しすぎるのだ。
「うちとは全然違うお店もあってね、面白いんだよ」
そして、ほら、また。そのきらきらした瞳で、自分が好きなものを伸び伸びと語るのだ。
「あー、でも、あのお店は車がないと行きにくいんだよなぁ……」
「あの」
マスターの言葉を遮るように私は言った。
私は自分で自分が何を言おうとしているのか理解していなかった。
「私をスープカレー屋さんに連れて行って下さい!」
私の声が小さなお店にこだました。