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【随想】求め合う輝きを
私は、欲しいものを欲しいと言う事が苦手である。漠然とした願望について思う時、何故か恨めしい気持ちになるのであった。しかしながら、自身の本願を見ないようにしていたら自分ごと見失い、結果的に苦しむ羽目となってしまった。
欲しいものを知るということは、叶うか、叶わないかは問題ではなく、自分を知るということである。「何が」欲しいかよりも、「何故」欲しいのかを考える時、自分というものの片鱗が見えて来る。そういうものなのかもしれない。
今の時代、大体の願いは自分の力で叶えることが出来るように思う。最も、ひとつの方法に固執しなければの話であるが。
私事で言えば、詩集は電子書籍で出版、作品はいつでもSNSで発表出来る。創作物を世に出したいと思う時、インターネットの発達は(諸々の問題をはらんではいるが)画期的な発表の場を提供してくれた。
しかし、それはここ何年かの話であり、私の関心を寄せる近代文学者にとっては、有名作家の刊行している雑誌に掲載されることが、作家としてのスタートに必要なことであった。
北原東代『白秋と大手拓次 共鳴する魂』(平成二十五年、株式会社春秋社)を読み、何故、詩人・大手拓次が生前に詩集を出版することが出来なかったのか、白秋と拓次の気質の違い、関係性について考えることとなった。
明治四十二年、北原白秋は芸術雑誌『朱欒』を刊行する。白秋の芸術活動は華々しく見える。大手拓次はこの雑誌に「藍色の蟇」、「慰安」を送り、二篇とも掲載された。こうして、拓次は白秋との最初の繋がりを得たのである。
白秋は大正三年に前年結成していた詩歌結社・巡礼詩社の機関紙「地上巡礼」を創刊。拓次は最初の詩作において、名前を「吉川惣一郎」としていたが、「地上巡礼」より本名の大手拓次として活動を始めている。
なお、この「地上巡礼」は白秋の弟鐡雄(北原前掲より〈鐡〉と表記となっているので、そのまま引用とする)の勤めた金尾文淵堂より創刊しており、鐡雄が上記出版社を退社した後には、白秋と共に、出版社・阿蘭陀書房を創立した。ここへ森鴎外、上田敏を顧問とした高踏的芸術雑誌「ARS」を創刊した。しかし、経済的理由によって、この雑誌は全七巻で休刊へと追い込まれた。
芸術というものは、金がかかる。儲かるものでもない。そう思うのは、私が無名のまま活動している故の負け犬の遠吠えかもしれない。いずれにせよ、文学の権威の名前を出したとしても上手くいかなかったのは、経営と芸術の相性の悪さ故と考えることもあながち間違ってはいないと思うのである。
「ARS」に、拓次は二か月間作品を投稿できずにいた。これも、拓次自身の経済的な問題であった。なぜなら東京に暮らす拓次への仕送りが大学卒業と同時に打ち切られたからだ。
さらに病弱であった彼の病院代もかかることから、その後は群馬の実家へ頻繁に帰省し、祖父、兄弟への金の無心による送金でしのいでいる状況であった。
しかし、そうした生活もいよいよ行き詰まり、拓次は実家の温泉宿を手伝うこととなる。そうした忙しい暮らしの中で、拓次は思うような詩作が出来ず、「ARS」休刊の為、作品発表の場も失ってしまった。
そのような苦しい状況にあっても、白秋には自身の詩を読んでもらいたいという気持ちから、手紙と共に白秋へ自身の詩を送っていた。北原前掲より、当該部分を引用する。
「大正四年一一月二四付「白秋宛拓次書簡には、自らの苦境を吐露したあと、次のように述べている。」
この頃さしあげ候私の詩ははづかしきほどの拙さにて候 お目にかけたくはなく候ひしがどうしても私の子供心があなた様に見ていただきたくがまん出来ず候へばさしあげたるにて候 なほ此後とても拙なき詩篇をさしあぐるつもりに候へば何とぞお目通しあらん事ひとへに願上候
一度にもあなた様に見ていただけば私の詩篇も生れし甲斐のこれあり候(後略)
現代を生きながら、私は詩を書いて、インターネットへと上げている。しかし、その意味を自分で見出せていないという奇妙な状態となっている。詩人になるということが、作品の対価の発生と見るのならば、私には電子書籍のマージンが入ってきている。よって詩人であるのか。詩のみで食べていくことが詩人であるというのならば、私は詩人にあらずとなるのか。詩が何某かの賞を受賞していることが詩人であるというのならば、私は詩人にあらずとなるのか。
私が詩人を名乗るのは、詩を書いているという至極単純な理由によるところである。しかしながら、詩が生まれることに、何か特別な心が作用しているという実感は無い。ただ、私から生まれるものが、詩であっただけのことである。それを公開するのは、ノートの中だけに留めておきたくないという心の作用によるものだ。寧ろ、こうして明瞭に述べられないこと、そのものが芸術であるとも言えるだろうか。
拓次の白秋には詩を読んでもらいたいという純粋な気持ちに触れる時、自分は恵まれた時代に創作活動が出来ていることに、ただ麻痺しているのではないかと思い始めた。どこかで、傲慢な気持ちで作品を生んではいないだろうか。今一度、立ち返り、生まれるものへの無意識の愛情に心を配る時ではないかと考え始めるのであった。詩が、私に愛想を尽かす前に。
現代において、「北原白秋」の名を知らない人は殆どいないことであろう。仮に知らなかったとしても、彼の作品は、詩歌、校歌、童謡と多岐に渡っているので、作品の中の一節は知っているのではないかと思う。裏を返せば、生前の白秋の仕事量が想像を絶するものであるということだ。その仕事を成すための、彼独自の瞑想状態、徹夜の日々が白秋の多忙を囲んでいた。
つまるところ、多忙を極める白秋へ依頼するには、強引さが必要であり、ここに、白秋と拓次のすれ違いが生まれたように思える。
拓次は、白秋を尊敬するあまりに、つつましやかな関係を続けていたのであった。読者視点の私には、拓次の在り方は常識的であり、好感の持てるものである。しかし、こうした態度が拓次の詩集刊行の道を閉ざしてしまったということに口惜しさを覚えてしまう。終わってしまったことを、眺めるだけであるから、そう勝手に思ってしまうのだ。
いずれにせよ、こうしたすれ違いが、拓次が生前詩集を発刊出来なかったという結果へ繋がっているのである。
何故、拓次は白秋への訪問を躊躇い続けたのか。それは、拓次が自身を内気であると言ったことの他に、北原東代氏は拓次が自身の難聴を気に病んでいたからだという理由を上げている。拓次は十七歳の事に中耳炎を患い、その後左耳が難聴となっていた。
この事について前掲より引用する。
「おそらく拓次は、自らの意志で白秋を訪ね、面談する時の、白秋の話がよく聞き取れないかもしれないことや、聞き違いをすることなどを恐れてもいたのであろう。」
「朱欒」にて白秋とつながりを持ってから、十四年後に漸く白秋と拓次の初顔合わせは叶った。白秋は拓次の印象について次のように書いている。
私は驚いて目を瞠った。
蓬々として捲いてちぢれた肩をうつ長髪、鼻も高く、鬱屈した逞しい顔、筋骨の厳つい中年の偉丈夫が、何と私の前に端座してゐたのではないか。予想とは全くちがつた、諧謔して云へば歴山大王のやうな風姿の君ではあつた。
白秋にとって、実物の拓次は、彼の詩や書簡のイメージと大きく異なっていたということがわかる。これは、萩原朔太郎が室生犀星に初めて出会った時に、その詩の印象とかけ離れた姿に嘆いていたことと類似している。無論、朔太郎と異なり、白秋は拓次を歴山王(アレキサンダー大王)のようであると評していることからネガティブな印象を持ったわけではない。
拓次は、詩集をアルスから刊行する予定であった。それも白秋から拓次へと持ち掛けられた話であり、その条件には白秋の「序文」が必要であった。この件について、前述の多忙な白秋へ拓次は強引に事を進めるということはしなかった。しかしながら、白秋は強引にも面会に来る者の依頼を、書簡による依頼よりも優先して行っていたということもあり、拓次の細やかな気遣いが、かえって白秋に思いが届きづらくなるという結果に繋がってしまったのである。
拓次の「待ち」の姿勢について、北原前掲より引用する。
「拓次によれば、もともと『詩集』の刊行は白秋に勧められて決まったことだった。そして、『詩集』の詩稿、献辞、後記など、すべてを白秋に託して、「どうか序文をよろしくお願いします」と頼んでいるのだから、その上、白秋に催促めいたことを言ったり、手紙に書いたりするのは失礼に当たる、と慮っていたのだろう。」
このことを拓次の行動不足であるとか、白秋が拓次の件を後回しにしていたからとか、そうした原因について論じるつもりは無い。もはや、「仕方なし」と言う他ない。
この事態は、畢竟、二人の「気質」のぶつかり合いであったのではないだろうか。私が、大手拓次という詩人を知ることが出来たのは、彼の才能が本物であって、白秋らが拓次の詩集をしっかり刊行してくれたからである。同情でなんぞ、詩集を出す訳が無い。
二つの才能同士は出会った。紛れもなく、出会ったのだ。面会の頻度は少なくとも、互いに行き違いがあったかもしれないが、才能は才能を必要としていた。才能は才能を惹きつけ合った。
大手拓次の詩は、目を開けていられない程の輝きを放つエメラルドのようだ。私は、「宝石」となった拓次の詩を読んでいる。白秋は、「原石」であった頃の拓次の詩も読んでいた。
きっと白秋には拓次の詩が、現代まで読まれる「宝石」であることが分かっていた。拓次の思いが白秋へ注がれるように、白秋の思いも拓次へと注がれていたのだ。
今、大手拓次の詩集は読まれ続けている。
これ以上の「結果」は無かったのではないか。
多くの近代詩人に埋もれることなく、輝き続ける、拓次の魂を思うのならば。
その輝きを曇らせなかった、白秋の魂を思うのならば。
・参考文献
北原東代『白秋と大手拓次 共鳴する魂』(平成二十五年、株式会社春秋社)