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ヘアドネーションという罪
昨年のクリスマスに、ヘアドネーションをしてきました。
私がなぜヘアドネーションをしたいと思ったのか、でも迷っていた気持ちもあったのはなぜかについて、文字に残すことで誰かと一緒に考えるきっかけになればと記録するにいたりました。
まず、ヘアドネーションとはなんぞや?という説明に対して、以下に簡潔にまとめてあった福岡県庁のがん感染症疾病対策課がん対策係のページの言葉をお借りして、説明させていただきます。
ヘアドネーションとは、ヘア(髪の毛)とドネーション(寄付)を合わせた言葉です。小児がんなどの病気や事故等により髪を失った子どもたちのために、寄付された髪の毛を使用して、ウィッグ(かつら)を作り、無償で提供する活動のことです。
最近、「ヘアドネーションをした」と言っても、ヘアドネーションとはどういうことなのかというのか、説明なしに伝わることが多くなってきたと感じています。それは、芸能人を含め著名人の方々がヘアドネーションを行ったとSNSなどで報告されていることが影響していると思います。
それ自体は、なぜ髪の毛が必要とされているのか、髪の毛を必要としている人たちについて想いを馳せるきっかけになるため、よい兆しだな〜と私は考えていますが、よくない兆しもあるのだと知りました。
なぜ私がヘアドネーションという言葉は知っていたのかというと、たしか最初に聞いたのは高校生留学の時にホームステイした先がきっかけだったと記憶しています。ホームステイ先の子ども(大学生)が、ヘアドネーションをするために髪を伸ばしているという話を聞いて、それがなんなのか教えてもらった気がします。
そのため、頭の中に言葉が集約されている棚があるとすれば、確実にその中にはヘアドネーションという言葉が入っていたと思います。
ただ前々から、私自身は “髪の毛を長く伸ばしたい”、 “切るのに勇気がいる” だったり髪の毛になにか深い思い入れがあるタイプではなかったので、それほど自分の髪の毛に執着がなく、おのずとある程度扱いずらいと感じる長さになればすぐに切ることを繰り返していました。
ヘアドネーションという需要があるとは知っていても、31cm以上に髪の毛を伸ばすというところまで辛抱強い性格ではなかったというのが、言ってしまえば簡単な理由で今までは一度も行ったことがありませんでした。
先にヘアドネーションできる髪の毛の長さを説明せずに明記してしまったように、実は規定があります。
団体によっても違いがありますが、以下が多くの団体に共通する部分だと思います。
・31cm以上の長さがあること
・完全に乾いていること
※カラー、パーマ、ブリーチヘアでも大丈夫
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今回わざわざ「ヘアドネーション」を扱って記事を書こうと思った理由に、冒頭にも書いた迷いがありました。
それは、以下の記事に出合ったことがきっかけです。
記事のタイトルは、なんともショッキングな『ヘアドネーションという罪。「いいこと」がもたらす社会の歪みについて』
しかも、以下の記事は2009年からヘアドネーション事業を行っているNPO法人 JHD&C(ジャーダック)代表理事渡辺貴一さんにインタビューして書かれたものです。
ショッキングだからこそ、この記事のタイトルとしても拝借させていただきました。
勝手ながら、箇条書きで要約すると以下のようなことが書かれていました。
それでも長くなってしまうぐらい、内容としてはとても濃いので、ぜひ記事を読んでいただければと思います。
・活動を行ってみて感じたことは、ウィッグだけ渡したところで何の解決にもならないということ。
・ヘアドネーションが「いいこと」に差し替えられて、本質的なものが抜け落ちたまま拡がっていった。
・「ヘアドネーションのために頑張って髪を伸ばしました」と誰かのためを想い、我慢して髪を伸ばす行為自体は美しいが、髪を切って落としたら、それは正直、ゴミ。
それが「いいこと」に変わる理由は、「ウィッグが手に入れば髪の毛がない人は喜ぶに違いない」という思い込み。
・髪の毛がない人たちは、できれば自分の毛を生やしたい。だが、それができないから仕方なくウィッグを用意する。それは、髪がないと社会生活が困難だと感じるから。
・病気の治療で髪を失ったら、「学校でいじめられるんじゃないか」と心配で、親がウィッグを用意する。つまり、ウィッグは自分を守るためのツールとなる。
・99%くらいの方が髪の毛があるのが普通の社会で、髪の毛があることを意識している人はほとんどいない。そのような社会において、髪の毛がないということは圧倒的なマイノリティー。これは髪の毛に限ったことではないが、それが今の社会。
・圧倒的マジョリティーがマイノリティーに対して、ウィッグが必要だという無意識の押し付けになっているんじゃないのか。
・一生懸命髪の毛を伸ばして、「私はヘアドネーションをしました、いいことをした」は本質的な解決ではない。
・生きづらさは、少数派というところから派生している。自分に責任がないことに対して、ただただコストを負わされている。
・僕らはヘアドネーションをスタートした運営者で、僕らにはその”無意識なバイアス”を広めたという罪がある。
・ただ、純粋に髪を提供してくださる人たちに、その責任はありませんし、そもそも私たちがこの活動をしているから送ってきてくれている。
・今まで髪の毛がなくても何とも思ってなかった方が、ニュースを見て「あ、ウィッグ着けたほうがいいのかな」と不安になることもあるのではないか。
・必ずしもウィッグを必要としない社会を目指しているはずなのに、活動が拡大すればするほど、活動の辻褄が合わなくなる。
・差別はなくならないと思っています。ただ、この違和感には気付いたほうがいいと思っているので僕は伝えています。
もちろん、善意のマウンティングは無意識ですので、このような話をされると不快になる方もいると思います。勉強すれば解決するということでもありません。
無意識の差別をなくすことはできるのか?ヘアドネーションがいらない社会を目指して
上記の記事は、少なからず私が安易にヘアドネーションをしたいと思わない、もしドネーションしたとしても「いいことをした」とだけ思われないように、しっかり自分の口で説明したいと思わせてもらえる内容でした。この記事を読んだ上でヘアドネーションをするか、しないのかを決めることはとても重要だったと感じています。
また、記事の内容はヘアドネーション以外にも、今の私や私の周り、日本や世界にも、とても大切な投げかけがなされていると思います。
私たちはヘアドネーションだけに限らず、無意識のうちに自分にとって当たり前の立場から物事を考えて、「いいこと」を決めてしまいがちだと思います。
本当にそうなのかということを問う前に、最近は特にSNSでの話題作りの波に流されていってしまっていることも否めないと感じます。
渡辺さんの投げかけは、私も日常でとても大切にしたいことで共感したと共に、自分自身が「できている」なんて簡単に言えないからこそ、こうやって話題にしているのだと思います。定期的に振り返りたいところです。
そんな中で、結果的に私はヘアドネーションをした理由としては、 “自分自身が生きていること、生かされていること” を実感したからでした。
ただ、ヘアドネーションをしたのはいいことでしょという風潮を生みたくなかったから、理由と迷いをここに記録することが、私のできることなのではないかと思っています。
少し前に、私自身は髪に執着がないタイプと言っていましたが、なぜ必要とされる長さまで髪を伸ばせたのかというと、簡単に言うと生きていることが辛くなって、鬱になっていたからです。
鬱になったとき、私の場合は身なりも気にならず、とにかく生きていることがしんどかったので、もちろん自分自身を綺麗にしようという気持ちが全くと言っていいほど湧いてきませんでした。
そんな中でも、死なない程度に食べて(正確には極端に食べなかったり、でもその期間を補うようにたくさん食べたり)、寝ていると、生きてはいるということで、爪や髪の毛などが伸びていました。
最初は鏡を見ることもなかったので、しばらくとにかく体を休めるという期間を経て、やっと少し周りにアンテナを張れるようになった時に、自分自身の髪が思ったよりも伸びていることに気づきました。
そこで、大げさになるかもしれないですが、「私は生きている」ということを人体を通して感じさせてもらいました。
生産活動もせずにただ 「いる」のに、たくさんの食べ物と人体の機能によって「生かされている」ことを実感しました。
そうなると、爪はなににも活用できそうにないので、切って捨ててしまいましたが、髪の毛はヘアドネーションをできるといいのかなと思い始めました。
ただ、その前に前述の記事を読んでいたこともあり、ドネーションをすることが必ずしも「いいこと」にはならないとは感じており、どうすればいいのかと悩んでいました。
結果、どうしてドネーションしたかというと、私のエゴだと思います。
鬱のときでも変わらず伸びて、「私は生きている」ことを教えてくれた髪の毛へのありがとうと、髪の毛を伸ばしてくれた生命たちへのありがとうを形にしたいという私の勝手な想いでした。
でも、それが髪の毛があって当たり前、ないとおかしい社会をつくる一端を担うことはあってはならない、でも髪の毛を欲しいと思う人たちが現にいるというところが髪の毛をドネーションするだけでなく、このnoteを書くという行動までになりました。
ウィッグができるまでに、1人の髪の毛ではできません。実に30人ほどの髪の毛を集めて1つのウィッグができるようです。
また、ウィッグの作り手の不足や、ウィッグができるまでの製作費の不足などもあるようで、本当に髪の毛を寄付したからすごいことでもなんでもないことがよくわかるなと思っています。
今回、ヘアドネーションという切り口から、社会の構造的な部分、そして個人的な話にまで及んで書いてきましたが、正直必ずしもここまでの話を理解して、話をできる人たちばかりではないことも承知しています。
ただ、なにかを見る際に一つの切り口だけから物事を見ていると、その上に犠牲があったり、無意識のうちに差別や偏見に加担していることは往々にしてあるのだと痛感させられます。
こういうことを話すと、小難しいことで思考がひねくれている、楽しくないと言われてしまうので、文字にして言葉に残すことは勇気がいると感じてしまっているのですが、だからこそ今回は特にそこに私の勇気を注ぎたいと思いました。
ヘアドネーションしました!と「いいことをした」にしたい人たちからは煙たがられるかもしれないですが、私の生きたい道は少なくともそっちではないと考えると、今回はヘアドネーションしてから時間がかかって形になったけれど、言葉にしたことに意味がある気がしています。
そしてなにより、表面だけの「いいこと」だけしか見られない人にはならないように、という自戒の念も込めたものになりました。