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母のことと子ども時代のこと

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夭逝した母にまつわる思い出とか、自分の子どもの頃のこととか。
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2020年12月の記事一覧

ばあちゃんのこと

ばあちゃんは、 一年中ぴっちりと引っつめた低い位置のおだんごヘア。 かっぽう着のポケットにはクリップ、輪ゴム、小さなネジなど謎の小物がいっぱい。 痒いところも痛いところもオロナインを塗る。 お腹の調子はすべて正露丸で整え、風邪症状は養命酒でやっつける。 母が亡くなり、家事は父方の祖母がしてくれた。成長期の子どもが4人もいると、食事の支度だけでも大仕事だ。隠居生活から引きずり出されたことを恨む気持ちもあったんだろう。私たち姉妹に対し、いつも厳しく批判的で、決して温かい

呪いをかけられたことがある

「頑張れ」は呪いかどうか、という作文を書いた。呪いの言葉だと思っていたけど、状況が変わったら違う意味があったよという話。 今日のは違うよ。呪いの言葉でしかないやつ。 言われたのは、母の葬儀の間。言ったのは誰か知らないおばちゃん。親戚か、近所の人か、とにかく私は知らない人。 母を亡くした4人姉妹の長女の私に、そのおばちゃんはこう言った。 「これからは娘であり姉であるだけでなく、妻であり母でありなさい」と。 そうか、母が亡くなるということはそういうことなのか!よし、お母

『千の風になって』に重ねる母の気配

この週末に年賀状を書き終わった。もう随分前から、友だちとの年始の挨拶はSNSで済ますことが多くなった。年賀状を出すのは主に、マクラメ教室の生徒さんと、夫と私の両親と、母の生前の知人宛である。 年賀状を書く時は、既に受け取った喪中はがきに気をつける。 少し前まで友人からは祖父母が亡くなった報せが多かったが、ここ数年で親を亡くしたという喪中はがきが多くなってきた。 ある時そのことを父に話したら、「お父さんの年代になると、配偶者を亡くした人が増えてくるよ」と言われた。 当た

牡蠣フライの記憶

小学四年生の時、入院中の母と二人きりで出かけたことがある。 「外出許可がおりたの。だから一緒におでかけしよう。学校を休んで、病院までおいで。」 「わたしだけ?」 「そう、ゆきちゃんだけよ。」 約束の日、待ち合わせは昼食には少し早い時間。久しぶりに見る、母の私服姿。見慣れた入院用のパジャマとは違う母の姿は知らない人みたいで、少し気恥ずかしく、なぜだか緊張する。 妹が生まれてからは母を独り占めできることなどなかった。なのに、いざ二人きりになると何を話せば良いか、どう振る

だからわたしはサンタクロースになった

母が亡くなって、2年位経った頃だろうか。ある冬の日、一通の手紙を見つけた。 書いたのは八つ離れた一番末の妹。まだ小学校一年かそこらだったはずだ。 『サンタさんへ クリスマスにはゆきをふらせてください。 そうしたらサンタさんにゆきでチャーハンをつくってあげます』 確かそんな文面だった。 幼い字でおえかき用紙いっぱいに書かれた手紙。それを読んで頭を殴られたような衝撃を受けた。 末の妹が生まれた後、母はたいてい入院していたから、妹は母と暮らしたことがほとんどない。父も母の

やりたい仕事ができなくて、今も諦めきれない。

小学校の社会の資料集、とあるページの左下のすみっこ。書かれていたのは青年海外協力隊の紹介だった。 その数行で私は将来を決めた。 それはちょうどエチオピア大飢饉(1984年)の頃。ガリガリに痩せ細ってお腹だけがカエルのように膨れ、顔にたかるハエを追い払うこともできない子どもたちをニュースで見て、小学生ながらその異様な状況を深刻に受け止めていた。 大人になったら青年海外協力隊に入って、開発途上国の支援をしたい。そのために看護師になろう。そう心に決めた。 その後中学生の時、

家事は、人の役に立つことを喜びとして知る第一歩

小学4年の夏休み。朝5時半に足音を立てないよう気を付けながら起きて台所に向かった。 鍋にお湯を沸かす。 豆腐を切って入れる。 乾燥わかめを入れる。 急に思い出して煮干しを2~3入れる。 味噌を入れる。 母が起きてきた。私が作った味噌汁を見てびっくりする。とても嬉しそうに笑う。 母の笑顔に満足した私は、もう味噌汁の出来不出来は気にならない。後ろで母がこっそり味を調えていたようだけど、いつものとおり妹とふざけながら朝を過ごす。 朝食の時、「ゆきこもこんなことできる

お弁当の甘い卵焼き

中学1年の1学期の終わりに、母が亡くなった。 忌引が終わって2~3日後から夏休みだったと思う。 長い夏休みは悲しみにくれて過ごしたかといえば、そうでもない。 母はそれより4年くらい前から入退院を繰り返していたので、夏休みにいないのも私にとってすでに当たり前のこと。昼間はいつもの夏休みのように自分のペースで適当に宿題を進め、妹とけんかして過ごした。 私たち姉妹が夏休みの間は、祖母や親戚が時々手土産を持って来てくれたり、家に招いてくれたりした。母を亡くした子どもたちが悲し

H先生に会える機会は逃したくない

『4日は京都、5日は奈良に行く予定です。ご都合よければ、お昼でも。』 って!年賀状に書かれてもさ、その日は仕事だよ。先生ってば!! と、年賀状に向かって毒づく。 小学5~6年の時の担任H先生は、干支でいえばちょうど一回り差の若い先生だ。時々怖い先生、でもどちらかと言うと楽しい兄貴分。 その頃は、これから始まる暗黒時代のプロローグ期だった。母はそれより数年前から闘病していたが、小5になってすぐの春休み、母から、白血病であること、長くは生きられないことを聞かされた。 母

とっくりひとつ、おちょこがふたつ

談笑する声や小さめのテレビの音が聞こえてきて、夜中に目を覚ました。 妹の体を踏まないように気をつけて起きだす。 煌々とついている蛍光灯の明かりが眩しくて、目がくらんでヨロヨロする。 母が、起きちゃった?と聞く。うん。 父が、おいでと言う。うん。 こたつの父の横に座る。 こたつの上には、漬物、みかん、スルメ、熱燗のとっくりと、おちょこがふたつ。 みかんを食べようとして、母に歯磨きしたでしょ、と注意される。父が、いいよいいよ、今日だけ特別、と笑う。 テレビでは知ら

初めての針仕事

母に、針に糸を通してもらい、四角いフェルトをもらって、ぷつりと針を刺してみた。見た目を裏切る堅い手応えに、決心を固める。 そのまま引っ張るとするりと糸が抜けた。玉どめをしていなかったからだ。 母が私の手から針と糸をとり、玉どめをしてから渡してくれる。 もう一度、フェルトに刺す。裏側に針が出ているので、フェルトをひっくり返して引っ張る。もう一度刺す。裏返して引っ張る。 初めての運針は長さ2cmの並縫い、二針。満足感が胸いっぱいに広がる。自分では見れないが、私の顔は輝いて