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『千の風になって』に重ねる母の気配

この週末に年賀状を書き終わった。もう随分前から、友だちとの年始の挨拶はSNSで済ますことが多くなった。年賀状を出すのは主に、マクラメ教室の生徒さんと、夫と私の両親と、母の生前の知人宛である。

年賀状を書く時は、既に受け取った喪中はがきに気をつける。

少し前まで友人からは祖父母が亡くなった報せが多かったが、ここ数年で親を亡くしたという喪中はがきが多くなってきた。

ある時そのことを父に話したら、「お父さんの年代になると、配偶者を亡くした人が増えてくるよ」と言われた。

当たり前だが、どんなに別れたくなくても、どんなに愛していても、別れの時はいつか必ずやってくる。

母が生きている時は、入院しているからその場にはいないのに、会話や生活の中に母の気配はあった。だが母が亡くなると、母の気配というものが時間とともに薄れていった。

母宛ての郵便物は来ない。母の持ち物が減ることはあっても増えることはない。何よりも、毎日思い出していた母と過ごした時間を、思い出さない日が増えていく。しかもそういった事柄が不可逆であるという事実に愕然とした。

『千の風になって』という歌が、数年前に流行した。この曲を初めて聞いたとき、ハッとして、それから、心の底からホッとした。母がいないというプレッシャーから逃れられたようで、全身の力が抜けた。

その気になって母の気配を感じようとすれば、きっとそこに母はいるのだ。母の気配が薄れていったのは、実は私の中にその必要がないからであって、気配が欲しくなればきっと感じることができるのだ。

『千の風になって』を聞くと、嬉しくて涙が出てくる。そしてやっぱり少し切なくなる。

前奏を聞くだけで顔が歪んできて、曲が始まれば必ず泣くのを知っているので、息子たちはこれを聞くのをとても嫌がる。母さんが泣くと悲しくなるんだと言う。

悲しいからじゃないよ。嬉しくて泣いているんだよ。いつかこの子らも歌詞の意味を知るのだろうか。


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