H先生に会える機会は逃したくない
『4日は京都、5日は奈良に行く予定です。ご都合よければ、お昼でも。』
って!年賀状に書かれてもさ、その日は仕事だよ。先生ってば!!
と、年賀状に向かって毒づく。
小学5~6年の時の担任H先生は、干支でいえばちょうど一回り差の若い先生だ。時々怖い先生、でもどちらかと言うと楽しい兄貴分。
その頃は、これから始まる暗黒時代のプロローグ期だった。母はそれより数年前から闘病していたが、小5になってすぐの春休み、母から、白血病であること、長くは生きられないことを聞かされた。
母の入院中は祖母が一緒に住んで家のことをしてくれたが、祖母は大嫌いな嫁のせいで孫の世話をさせられることになったと母を呪い、私たちに冷たくあたった。
退院していても、体力のない母を手伝って色々な家事をしなければならなかった。
最も辛かったのは、両親が母の信仰のことで言い争っていたことだ。
母はエホバの証人だった。エホバの証人の人たちは、臓器移植を否定している。その中には血液も含まれている。つまり白血病だというのに母は輸血を拒否していた。
輸血をしなければ、死ぬのが早まる。分かっていて拒否する母を、信仰をもたない父は解せなかった。
父が一日も長く生きて欲しいと願うのは当たり前だし、母も一秒でも長く生きたかっただろう。けれど信仰と病との間で両親は苦しみ、言い争い、着地点が見つからなかった。
家事、祖母との関係、両親のこと。たくさんの不満を抱えて爆発しそうな私に、H先生は頻繁に声をかけ、二人だけで話を聞いてくれた。
先生の前でどれだけ泣いたことか。
先生と一緒に話す時には予め箱のティッシュが用意してあった。泣いては鼻をかみ、鼻をかんでは泣いた。ゴミ箱がいっぱいになるほどに。
小学校卒業以降、H先生とのお付き合いは年賀状くらいになったが、卒後24年になる今も続いている。
H先生にとって、私は今まで担任したたくさんの教え子の一人だろう。忘れるほどではないが、特別でもない。でも私にとってはたったひとりの特別な先生。
だから、会える時には会いたいんだよ。年賀状じゃなく、時間に余裕をもって連絡を下さい。
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