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「寂しさを感じているが実際に人と会うと疲れるというタイプの人は、『交流をもっと持たないと』という観念にとらわれず、無理に友達の幅を広げようとしないほうが、結果としてQOLは上がるのではないか」という趣旨のツイートを見て、たしかにそうかもしれないと思うなどした。 過去のエントリでも何度か話題にしたことがあるけれども、この「さみしさ」というのは仏教で言われる「渇愛」と似たところがあって、単なる一時の感情であるというよりは、むしろそれを発生させるエネルギー源もしくは構造として、
昨日は散歩中に蝉の抜け殻を見つけて、小一時間眺めて過ごした。 昔から蝉の抜け殻が好きだ。 生きた昆虫は、眺めているのは好きだが、少しこわい。生きていることが、こわい。 触れるのは平気なのだが、持っているのがこわい。動くものであることがこわい。飛んだり跳ねたりもがいたり、とにかく意思がある。掴んでいる間にじわじわと恐ろしくなってきて、手放してしまう。 標本も結構こわい。かつて動いていたものであることがこわい。整然とピン留めされているところになんとなく不安を覚え、こころから安心
自己満足プレイリスト、今回は洋楽です。特にテーマとかはなくて今の気分で自由に選びました。宜しければ聞いて頂きたいです。 では、曲について一言。 1. Bob Dylan 「Blowin' In The Wind」 言わずもがなの大名曲。ディランはノーベル文学賞を取りましたが、やはり詞がすごく良いです。映画『フォレスト・ガンプ』での使われ方も印象的でした。 2. The Get Up Kids 「Overdue」 エモ・コア代表格のバンドだけどそれに囚われない、サウンド
今日は、晴れそうだから山に行く。 最近多少階段で筋トレしているとはいえ、まだ全然体力ついていないので、山頂を目指すのじゃなく序盤にある滝を見に行く程度。2時間くらいのトレッキングの予定。 滝はいい。ずっと見ていられる。全体を見ていてもいいし、流れる水のひとかたまりの飛沫に注目して行く先を追うのも楽しい。 この間、蛍を見に行った。あじさいも見に行った。 ああいうのも、いつまでも見ていられる。何も考えずに、ただ居る、佇むことができる。とてもよい時間だ。 草花の群落や、山々
しばらく前から、家にアマビエだるまがいる。白河だるまのかわいい子。 ウイルス対策としては直接的にはどうにもならないかもしれないが、いつも帰るとほっこりして、心の支えになる。 そんなものが何になる、と思う人もいるだろうが、この「ほっこり」の力はばかにできない。 不安や寂しさが薄れるし、なにより、私は確かに誰かに健康を願ってもらったのだという事実を、毎日胸に刻んで確かめることができる。 世の中でたくさんのアマビエグッズや縁起物が作られ、売り買いされているのを見るにつけ、私はそ
そういえば、と思って、温泉帰りに自宅とは少しずれる方向に車を走らせた。 そろそろだったかもしれない。あのへんのあじさい。 道はうろ覚えだが、ナビがあるから、とりあえず進む。小さな集落で、道行く人を楽しませるために植えたあじさいの道。 スマホで写真はめったに撮らないのだけど、今日は車を路肩に停めてちょっと撮ってみた。 私にたいせつなものをくれたたいせつな人が、確かあじさい好きだったな、と思って。 縦を横にするのもわからないくらいの画像扱いのど素人。 これでやりかた合ってい
青梅やらっきょうが出る頃、毎年ピクルスを漬けている。 キュウリ、セロリ、ミョウガは外せない。あとは気分とタッパーの隙間に合わせてにんじんや玉ねぎやパプリカなど。 ざくざく切って湯通しして、よく洗って乾かした筒型のタッパーに詰める。 ピクルスは大学生の頃からやり出したのだが、昔はちゃんと酢や砂糖を鍋で一度沸騰させて液を作り、容器も煮沸消毒した耐熱容器で、とかやっていた。台所に広がるむせるような酢の香りも、悪くないと思っていた。 それが年々楽を覚えて、今年はタッパーに野菜を
先日、イオンに行ったら地元の幼稚園生の絵が飾ってあった。 そうか、世の中父の日か、と思って絵の展示を眺めていたら、標題が「大好きな家族の絵」となっていた。 お父さんの絵、ではない。父のいない家も多いということなのだろう。 私はこのような家族愛やその正しさみたいなものを確かめるようなイベントは少々苦手なのだが(それは人に嘘をつかなくてはいけなくなるから)、「父の絵」ではなく「家族の絵」とした主催者の少しの配慮に、板挟みの中での小さな優しさを見た。 (※以下、あまり楽しくはない
私は詩というものが好きだ。 書くのも、読むのも、うたうのも。 ずっと分からないで好きだった。 なんでか分からないけど好き。うまく言えないけど、なくちゃいけないような気がする。 そんな説明しかできないでいた。 大学のときの専門も詩だった。 歴史、修辞、音韻、いろいろ学んだが、いつも腑に落ちない感じがしていた。 文学理論の研究をしながら、ほんとうにやりたいのはこういうことじゃないような気がしていた。 なんで好きなのか。なんで惹かれるのか。なんで求めるのか。なんで書くのか。な
衣替えをし、本部屋に積んである本をいい加減片付けることにし、残す本を選別していたら今日は終わった。 引っ越しのたびにけっこう減らしているはずなのに、買うのも読むのも昔より減っているのに、何故かいつも本棚から本が溢れている謎。 しかも、あれがあったはずだなぁと、あとから思う本は軒並み無いのだ。過去の自分の取捨選択のセンスはどうしてこうイマイチなんだろう。 きっと今回の選別についても、どうせ未来にはがっかりする結果になっているんだろうなと、なんとなく思う。この際全部捨ててしまお
ふきを煮ることにした。 ふきは数ある山菜の中でも扱いが簡単で、しかも仄かな苦味とシャキシャキの歯ざわりがいかにも山菜らしくてとても好きだ。 とはいえ、ふきの味が恋しくなり、自分でやるようになったのはここ数年のこと。それまでは全然、思い出しもしなかった。 昔は私にとっての山菜ランキングで不動の第一位は筍、第二位はたらの芽だった。ふきはというと、ランク外。 しかし、山菜類のアク抜きや天ぷらを自分でやることの面倒さといったらなく、一人暮らしで食べ切れるぶんだけ美味しく作ることも
子どものころ、私にとって世界は、興味がある(=すごく好き)と、興味がない(=どうでもいい)の二種類しかなかった。 興味があるものについてはのめりこんでもうそれ以外の選択肢なんてありえない、となるが、興味がないものや自分の満足を越えた部分には、ものすごく適当でいい加減になり、手抜きもひどかった。嫌いという感情はほとんど持たず、何かを選ぶときは大概絶対の一択かなんでもいいかのどちらかで、たとえば何かの希望を第三希望まで書くとしたら、第一希望を三回書くか、白紙かのどちらか、という