ふきの話

ふきを煮ることにした。

ふきは数ある山菜の中でも扱いが簡単で、しかも仄かな苦味とシャキシャキの歯ざわりがいかにも山菜らしくてとても好きだ。
とはいえ、ふきの味が恋しくなり、自分でやるようになったのはここ数年のこと。それまでは全然、思い出しもしなかった。

昔は私にとっての山菜ランキングで不動の第一位は筍、第二位はたらの芽だった。ふきはというと、ランク外。
しかし、山菜類のアク抜きや天ぷらを自分でやることの面倒さといったらなく、一人暮らしで食べ切れるぶんだけ美味しく作ることもとても難しく、かといって水煮や惣菜に手を出すのは気が引けて、そもそも買うとびっくりするくらい高くてひぇぇと思って手を出せないでいるうちに、自然と疎遠になってしまった。

その点ふきはそのつど食べる分だけ煮れば良いし、大鍋も天ぷら鍋もなくていいから一人暮らしには向いている。だいたいどこでも手に入るし、買ってもそんなに高くないし。
そんなわけで近年ランキングが急浮上し、気がつけば、自分で調理して食べたいと思うまでになった。

ふきはアクがある割には下処理がとっても楽だ。塩とお湯とフライパンさえあればいい。大雑把な私でもできる。適当な長さに切って、塩をまぶしてごりごり板ずりして、茹でる。冷水にとったら、皮をむく。すーっとむけて、透き通る翡翠色の茎が現れるのがたまらなく気持ちがいい。そしてわりと楽しい。あとは好きな味付けで煮るだけ。

皮をむきながら、ふきの香りと色でよみがえる記憶もある。
ふきで思い出すのは、ばぁちゃんの姿だ。

私は幼い頃、祖母宅に世話になっていた。遊び相手になってもらったというわけではなく、文字通り「見ていて」もらった、という感じ。私は祖母の目の届く範囲で一人で遊んでいたし、祖母はいつも縁側で一人でなにかの作業をしていた。

春はどこからか新聞に包まれた大量の山菜を引き受け、ひたすらそれの処理をしていた。昔は山に入っていたようだけれど、足を悪くしてからは山には行かなくなったらしいから、たぶん親戚が採ってきたもの。大量のわらびやぜんまい、大量のふきなど。

季節によって、扱うのは紫蘇や梅になり、大豆や麹になり、蝗や柿や栗になり、そういったのが正月まで続く。アク抜き、塩もみ、塩漬け、選り分け、皮むき、煮炊き、などなど。樽や大鍋は常に稼働していた。そのほか、夏から秋の祭りまでは、祭りの若衆用の浴衣を縫う。暇があれば刺し子や雑巾縫い。冬は豆の選り分けと繕い物が多かった。

ばぁちゃんはほんとうに手際が良かった。私がやると遅いうえにクオリティもいまいちなので、実務的なところを任されることはなかったが、たまに簡単な手伝いをした。何かを運ぶとか、何かの番をするとか、押さえ係とか、あんこ屋や麹屋にお使いに行くとか、出来上がりに影響を与えないところのこと。

ばぁちゃんの手仕事のなかでも、ふきの皮むきは眺めているのがとても好きな作業だった。
大鍋でやるからふきは長いままで、水を張った樽に大量に入っている。一本取り出し、ぽきんと折ってすーっとむいて、ぽちゃん、と別の樽に入れる。
ぽきん、すーっ、ぽちゃん。
ぽきん、すーっ、ぽちゃん。
その一連のリズミカルな動きと、見事にするするとむける皮の様子は、見ていて飽きなかった。

たぶん、いまになってふきの処理が簡単だと思えるのも、皮むきが楽しいと思えるのも、そのときの記憶のおかげだと思う。
やってみるとわかるのだが、一本の茎の周りの皮360°分を素手で1回のすーっできれいにむききるというのは難しく、けっこうな技術を要する。たいていは一本につき何回かやらないと皮をきれいにむけない。ここに面倒くささといらつきを感じてしまう人はもしかすると多いかもしれない。
しかし私は幸運なことに、あの大量の美しい「すーっ」を目に焼き付けていているからか、思い出している間に作業が終わるのだ。

今回のふきも、体感的にはあっという間だった。
山菜はやはり生のものを自分で処理して食べるのが美味しい。あぁ、美味しい。

無きゃ無いでなんとかなるものだけれども、私はふきを煮ることで、ようやく春を始められた気がする。
これがなきゃ始まらないっていうのは、こういうときに使うことばかもしれない。

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