外に引きこもる

今日は、晴れそうだから山に行く。

最近多少階段で筋トレしているとはいえ、まだ全然体力ついていないので、山頂を目指すのじゃなく序盤にある滝を見に行く程度。2時間くらいのトレッキングの予定。

滝はいい。ずっと見ていられる。全体を見ていてもいいし、流れる水のひとかたまりの飛沫に注目して行く先を追うのも楽しい。

この間、蛍を見に行った。あじさいも見に行った。
ああいうのも、いつまでも見ていられる。何も考えずに、ただ居る、佇むことができる。とてもよい時間だ。

草花の群落や、山々や、いろんな天然記念物の大樹、岩、滝、水源。また、動物園や植物園。
とくに用事がない休みの日は、時期が合うものを見つけてどこかしらに出かけていることが多い。遠出するのが面倒なときは、近くの公園や川。

こういうのを人に言うと、アクティブですね、とか、アウトドア派なんですね、みたいに言われるが、なんとなくそれは私を適切には表していないような気がする。どちらかというと、逆だ。

私がどこかに行くのは、自然が好き、うつくしいものが好き、というのもあるにはあるが、家にいると小さなことをどんどん深く考えて病みそうになってしまうから。そうならないために外に出る。そのほうが理由としては大きい。

どこかに行って何かをすれば、一人になれる。誰にも会わずに済むし、世間話をしなくて済む。人を観察しないで済む。あのときああ言ってしまった、あのときああ言われた、あの人のあのことばや態度の意図はなんだったのか、こちらの返しはあれでよかったのか、など、人とのやりとりに関することで過剰に思い悩まなくて済む。目の前の何かを見つめていれば、思い煩わなくて済む。準備のあれこれをしている間も、何も考えなくて済む。

つまりは何も考えないようにするために、ただ佇んで身体を疲れさせるために、自然を利用しているだけなのだ。だから対象は楽しめて詩になるようなものなら正直なんでもいい。田舎だと自然の選択肢が多いから飽きなくていいとは思う。お金もほとんどかからないし。

自然は私のことなんてお構いなしにずっとそこに在って、季節を巡らせてくれる。暇さえあれば無限に煩悶して逡巡してその場で足踏みを続けそうな私に対して、刻の経過を知らせてくれる。ひととき共に在って帰れば、そのまま眠りにつかせてくれる。あとから思い出しても詩になったりして効果が持続する。なんて素晴らしくありがたい存在なのだろう。

そうしていなして寝かしつけてもらうためにふらふらと外に出ている私は、やはり現実逃避のようなことをしているのであって、それは果たしてアクティブなアウトドア派っていうのかな、と思う。

では、行ってきます。

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