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見るという行為は記憶に大変影響される

例えば

織物は、基本的に機にかけた経(たていと)に緯(よこいと)が入って交差し、布になるので、どちらも干渉し合って糸の時の色と出来上がりの布の色はかなり変わります。

が、意外に、その布を織った人は「その布を見るお客さまの視座」では見えておらず、現実の自作の色を体感していないことがあります。

もちろん、この「作り手とお客さまの視座の違いによる認識のズレ」は染でも同じ。。。

上は、分かりやすい例として織物で説明しただけで、何かつくる事において、全て同じです。

作り手が良く陥るのは

【制作において、自分がいろいろ積み重ねた制作時の「過程」も込みで、自作を見てしまうこと】

です。

制作過程で消えてしまったもの、制作過程で変化してしまったものを、まだあるものとして【眼の前にある作品の現物と、制作過程の記憶のミックスで自作を把握してしまう】という失敗をします。

人は、眼に映ったものだけを見ているのではなく「記憶や願望も込みの、脳が作り出した映像を見ている」のだと、本当に思い知ります。

作品の現物を眼の前にし、作品を見る人に対して制作過程を解説しながら良く見てもらえば、見る人にも作者の視座が少しは分かりますが、しかしその作者の視座を何もない状態で作品を見る人に要求するのは酷というものです。

作り手は誰しもそこに陥り勝ちなので、少なくともその「自分に見えている自作の印象」と「現実に他人から見えている自作の印象」のズレを少なくする姿勢は必要だと思うのです。

しかし、なかなかそうは行きません。

自分の脳が作り出した映像を自分の作品だと思っている作者は、自分は作品をこうしたのに、誰もそれを分かってくれない!となってしまったりします。

確かにその「過程の痕跡」は僅かに残っているのですが、それはだいたい本人にしか分からないのです。あるいは「作り手本人が持つ自作のイメージとは違うものに実際にはなっているのに、作り手自身が気づけ無い」ということになっています。

その他

例えば、指摘されなければ、自分では全く気づかなかったことに、他人から指摘されて初めて「あっ!!」と気付き、それからはもう、それしか眼に入らないぐらいに気になることがあります。

しかし、それに気づく前には眼に映っていても、認識はされていなかったわけです。

さらに、実はそれほど重要ではないその部分に振り回されてしまい、それを修正するために他の良さが無くなってしまったり。。。

それは「実際は、そのままスルーしても良い些事に対して、気になりだすとそれが重要な問題に見えてしまう」ということです。

本当に、人はただ普通に「見る」という行為すら、自分自身が実際にどうしているかが分からないもの、ままならないものだと思います。

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