つくったものを社会に公開する際に責任が伴うのは当たり前
いわゆる、表現の自由、ということが良く言われますが・・・そんなことをつらつらと・・・
自由は武器化する
例えば芸術家であるなら・・・
充分に表現の自由があると言える日本の現状で、あまり過剰に「表現の自由」を主張する芸術家と、進歩的な方々を観ると、
いわゆる芸術家も社会生活をする、いち社会人ですから、芸術家だからなんでもアリ、とはならないのは自然ではないでしょうか?表現に特化した分野として、多少一般人よりも際どい所まで攻めるのが許されるとしても、過激な表現をしたとしても「それって人としてどうよ?」というところは超えないことが前提ではないでしょうか?
と、私は良く思います。
一部の芸術家と、一部の進歩的知識人とかいう人達の
「芸術家は、その作品によって誰かを不快の沼に落とし込もうと、人の心を傷つけようと、争いの元になろうと関知しないし、そうなったとしても免責されるべき特別な存在である。そして芸術家の表現を邪魔するのは何人たりとも許されない。芸術家のどんな表現も許容するのが進歩的な社会だ」
という態度は、単純に人として、頭悪く感じますし、下劣だし、無粋だ・・と思います。
何かしらの真実を現出させている作品は同じように、人の心に刺さり、人を不安にさせることがあります。その刺さる感じを不快に感じたり、それによって心に傷が付く場合もありますが、それは「自分の精神が思いがけず新しく展開することへの違和感や抵抗」(戸惑い)であり、それは【発展性のある違和感】なので、上記のような主張をする芸術家の作品から受ける不快感とは正反対の性質のものです。
野放図な芸術家の態度によって産まれた、特に偏った政治的な内容の作品は、だいたい「発展性のないただの不快感」と「対立」しか生みません。
彼らはいつも身勝手な活動をし、過剰に表現の自由を求めますが・・・
それをしてしまうと「表現の自由返し」をされてしまい、そこでまた対立が起こります。
自由を盾に自分の権利を押して行くと、相手からも自由を盾に反撃されます。どちらも表現や行動の自由を主張するわけですが、人は、自分が相手の自由のためにガマンするのはイヤですから、そこに争いが起こります。
「過度の自由の主張は、争い事を生む」わけです。
なぜなら、そういう人たちは【自由を武器化してしまう】からです。
【身勝手な自由の主張は武器化しやすい】のです。
世の中の自由は、ほぼ武器化していますから、国同士が武力の均衡や相対的バランスによって平和が維持されるのと同じく、お互いの自由をすり合わせ、お互いに妥協点を見出し、人は生きて行かなければならないわけです。人間だもの。
しかし、自分ルールで自由人であらせられる自称芸術家と自称進歩的知識人たちは、そのルールから別枠で好き勝手に活動して良いとしている感じです。
しかし、本来の芸術家の扱う自由は「自由を武器化しないもの」で、公共性のあるものです。それには「高度な精神レベルと観察力が必要」と私は考えます。
「それって人としてどうよ?」という作品を、表現の自由を盾に垂れ流すような人は、自分が思いつきで他人に暴力をふるって周りを混乱させ、暴力をふるう自由を主張し、周りがその態度に反発すると、表現の自由を主張して自分の行動を正当化したり、知らん顔をしているように私には感じられます。なんだか、言葉は悪いですが野生の猿が人間の集落でやりたい放題やっているみたいな感じです・・・
芸術分野だけ、野放図で良いというのは変
科学や物理学、医療、数学、ビジネス、その他・・・そのような研究や実験や社会活動は大変クリエイティブな世界です。最近の芸術分野よりも、クリエイティブだとすら私は思います。
そんななかで、例えば医療分野などでは倫理的問題に敏感ですから、実験・研究でも常に模索しながら行われているわけです。
私は、同じクリエイティブな分野なのに、芸術家だけが別枠でそのような問題と無関係で良い、という態度はおかしいと考えています。同じく、人の心と密接に関わる分野なのに。
それと、
芸術分野で、海外の現代美術のトレンドはそうだから、という理由で、日本人からすればちょっと眉をひそめるような海外の流行を、日本は遅れている、だから日本も開放せよ!という態度もなんだか卑屈で私は変に思います。
そもそも、それは自由ではありません。自分の意思が無いのですから。
もちろん、日本人が自ら希求して何か新しいことをするのは大いに結構ですけども。
こちらに、春画の公開方法についての私の意見 を書いていますが、海外でそうだから、短絡的に日本でもそうするべき、とするのはおかしいと思うのです。
【平和のための作品と言いながら、実質的には対立を煽る作品】は否定したい
自由を履き違えた野放図な態度から産まれた芸術作品は、芯が無いので、珍奇なだけで、だいたい面白くありません。特に偏った政治的テーマが入ると、だいたいおかしなことになります。
そのようなものは、
例えば、平和をテーマにした作品といいながらその実、作者の私怨や奇形的思想や嗜好を吐露する作品に過ぎず、それは人々の対立を煽るだけで、平和のために役立たない事が殆どではないでしょうか?
同じような奇形的思想や嗜好を持つ人同士の内輪ウケ的評価はありますが、社会にとっては生産性の無い騒ぎを起こすだけの迷惑な存在です。
そのような作品の作者は、社会を騒がして、それが自分への批判に向かうと「私は実は、これを機会に皆さんにこのテーマに向き合い対話をして欲しかった」などと上から目線の態度で、それらしいことを言い、逃げます・・・実は答えを持っていないのに、ナゼか偉そうに、皆さんに考えてもらいたく思った、などと言う。全くいやらしく情けない態度です。
それでは、有名になるために凶悪犯罪を犯すことを後付の理由で正当化しているようなもので、全く話になりません。
芸術家は人として先端で精神が開放されているかのような前提で語られることが多いですが、そうとは限りません。
明らかに「それって人としてどうよ?」という作品なるものに対して、ごく当たり前の感覚で拒絶する人の精神が古くて閉じていて、そのおかしな芸術家なる人が先端の精神を持ち、精神が開放されていて、真実を見つめる「人として格上の存在」なわけが無いのです。
そもそも、偏った政治的な主張を込めた作品にあり勝ちな
【平和のための作品と言いながら、実質的には対立を煽る作品】
がどうして芸術作品なのでしょうか?
そのシンプルな事実が重要です。
しかも、相手をどんなに貶めても、その相手からは反撃されないような対象をテーマにし、ここまでやるか、というほどに貶めます。本当に世界的に禁忌とされている危険な対象は作品にしないのに、自分は勇気ある正義の使者であるかのような態度で・・・どうして、彼らは表現の自由を強く主張するのにその「本当に危ないタブー、本当に表現の自由を奪う対象」に表現の自由を主張しないのでしょうか?
下品で無礼で汚い作品に「芸術だから、実は何か高邁な真意があるのではないか?」なんていうことは、ちょって冷静になって距離を置いて観察すれば殆どのケースで「ない」のです。そのようなものを「芸術だからと、特別に認めてやる必要はない」のですね。ちょっと普通に考えれば当たり前のことなのです。
芸術分野の文脈でしか通用しない価値観は、特定の層を潤す商売のシステムに過ぎません。
社会は、そういうものに対して進んで理解を示す必要は無いと思いますし、そういうものがあったら排除される社会は健全だと思います。
例えば、倫理的な部分を無視した医療分野の技術の開発が成功しても、社会ではそれを受け入れないでしょう。それに対して「受け入れられない奴らは知性が足りないのだ」と、その研究者が社会を批判して「技術的には可能だろうけども、人としてどうよ?」ということを社会に公開したら、その研究者は社会から吊るし上げられるでしょう。そのような人は、仮に優れた研究者であってもマッドサイエンティストです。
マッドサエイエンティストのような人とその仕事を崇めるのが芸術だというのなら、そんな価値観は狂っています。
良く狂気が芸術だと主張する人がいますが、それもおかしな話です。狂気といえば、良く画家のゴッホなどが例に出されますが、ゴッホは狂気で絵を描いていません。ゴッホが狂気で絵を描いたなどというのは、どこかの誰かが作った物語に過ぎません。
「超正常」(リンク先に「超正常」について書いています)が一般の価値観から観ると狂気と密接に観える、というのとは全く意味が違います。
現実問題として、表現の自由度と、制作物の質は、リンクしない
「新しいものが出来たが、社会通念上問題アリ」
というものが時に出来上がるのは、芸術分野だけでなく、どの分野でも良く起こることです。全然特別な出来事ではありません。
どうして芸術分野だけ、それを公開しても免罪されることになっているのでしょうか?私には理解出来ません。
芸術家は自由だから、ということなのでしょうが、実際には「文脈、背景、トレンド、ビジネス」の監獄のなかにいる現代の美術業界は、他の物理、科学、数学、その他研究分野や、ビジネスの分野よりもずっと閉じていて同じところを回っていて、新鮮さが無い不自由な分野だと私は感じます。
ともかく、研究者にも創作の自由がありますし、芸術家にも創作の自由があります。
その自由は、少なくとも日本ではほぼ確保されていると思います。
もちろん、医療などでは倫理的問題で実験に制限があったりするでしょうが、しかしアイデアを出したり、計画を立てたりすることは誰にも邪魔されません。
しかし【それを社会に公開するにあたっては、そこで起こるいろいろな責任を背負う必要がある】わけです。
私達は動物ではなく、人間ですから当たり前の話です。動物だって群れの決まりに背けば排除されますし。
しかし、不思議と芸術分野に関しては、社会からの批判、拒絶に対して芸術家とその業界人たちは「表現の自由が侵害された」と上から目線で文句を言います。おかしなことです。
それと、芸術分野以外の医療、科学などの分野で「新しいものが出来たが、社会通念上問題アリで受け入れられなかったこと」は、後の技術的進化や人間の価値観に影響を与えることがあります。
それは自称芸術家たちが扱う中途半端な精神云々の世界ではなく、より現実的なことで、成功しても失敗しても世の中への影響が大きいからです。その分、責任も大きくかかると思われます。
しかし、いわゆる芸術分野は、そのような直接的な社会的影響は少ないので社会から、なんとなく許されている部分もあるのかも知れませんね。
いわゆる芸術系で「新しいものが出来たが、社会通念上問題アリで受け入れられなかったこと」は、後世に良い影響を与えるものはほぼ無いと思います。あったとしても業界内で限定的に、あるいはアンダーグラウンドの世界で定着し、進化します。(こちらは素晴らしく進化することもあります)しかし、表の社会で、人類の精神に現実的な影響を与えることは滅多に無い。
そもそも、表現の自由、と現代人は良く言いますが、文学でも美術系でも音楽でも、現代よりも表現の自由の幅の狭い時代の古典の素晴らしいものに並んだ、あるいは凌駕した作品は殆ど存在しておりません。
現実問題として、表現の自由度と、創作物の質は、リンクしないのです。
芸術家に出来る事は、その時代時代で可能な作品をつくること(と、その周辺の理論構築)だけです。表現の自由度が上がったからといって歴史に残り、後の人類にずっと影響を与え続けるような作品が出来るわけではないのです。
芸術家は常に限界を突破し、人類にとって新しい指標を立てる存在、というわけではないのです。芸術家は超人ではありません。単に普通一般の人々と同じ、何かの得意分野を持つ、いち社会人に過ぎません。
別に芸術家だけが、人類に新しい指標を立てる人ではありません。他の目立たない分野の人でもそういうことを成し遂げる人は沢山います。
そして、そういうことを成し遂げたからといって「人類として一段上」ということも無いわけです。人のやることですから。その業績に感服し尊敬したとしても、その人はやっぱり人間です。
もちろん、これは新しいことに挑戦することへの批判ではなく、何か産み出し、社会に出す立場の人の自覚の話です。(どの分野であっても)
私は、表現は三つの要素で成り立っていると考えています
私は、人間の、何か産み出すタイプの表現については、以下のように考えています。
(人の表現は、日常のあらゆることにありますので、ここでは「何かをつくる、産み出す行為」についての話題に限定しております)
人が何かを産み出す事までは自由ですが、それを社会に公開する際には、産み出す時のような自由はありません。
人は社会的動物ですから、社会に公開する際には何かしらの制限がかかるのは仕方がなく、また、その制限は悪いものばかりではないと思います。
誰かの自由は時に他の人の権利や自由を侵害するからです。
そこに【模索】が産まれるわけです。
芸術家だけが特例とされて、自由どころか野放図でいられる存在で、それを邪魔してはならないとするのは全くの間違いです。
自由には摂理や自然に産まれる制限が含まれますが、野放図はただの無責任な行動をし、それを顧みないことです。
むしろ、芸術家ほど、その【模索】が必要ではないでしょうか。
なぜなら、本来、芸術家こそ、社会的な存在だからです。個人の性癖を垂れ流す存在ではありません。
自由=野放図 ではありません。
芸術家ほど、野放図ではない「高度な自由」を社会に提示出来なければならないのです。
例えばある芸術家が、自分が本当に表現したく思い、作品化したものが、現状の社会において観た人に強い不快感を与えた場合、その事実に無責任ではいられません。
多く、特に政治的な意味合いの強い作品で人々に不快感を与える作品を制作する作者は、実際にはそれが自分の思想と相容れない人々に強い不快感を与えることを理解して(それが目的で)制作しています。
しかし、批判が強くなると、そこに後付けの理屈で「実はその不快感には深淵な意味が隠されているかのように主張する」のです。そういう言い訳はただの逃避であり、自身でそれをした瞬間にその作品は崩壊します。
だいたいは、そのような作品は不快感そのものを社会に叩きつけ、同じ思想の身内同士で楽しみたかっただけのことが殆どです。あるいは、それが商売になる場合。あるいは、海外でウケそうな日本人が日本人を貶めるような自虐的なテーマの作品・・・
それはそれで表現の自由ですから、そこまでは良しとしましょう。しかし、批判が起こるとそれに尤もらしい言い訳のような理屈をつけるのは情けない。
社会に私怨をぶつけたいなら、また、奇形的な思想や嗜好を世の中に発信したいなら、それが徹底されれば作品として成立します。しかし、それだと社会から反発を受ける事が分かっているので、尤もらしい、社会に媚びを売ったような深淵な意味を作品に添付するのです。その私怨を貫くほどの覚悟が無い。
作者自身が、作品を内部崩壊させ、粗大ゴミ化してしまうわけです。
それは本当に良く起こることで、それは到底芸術作品とは呼べません。
自作を制作し公開する際に自分に与えられた自由に見合う覚悟もなく、責任も取らず、逃げ回っているからです。
【構造的に制限のある“実社会”で、理論的な絶対自由の理屈を振り回す】のは間違い
社会的存在である人間は、完全に自分の行為の自由を得ることは出来ません。それは社会という構造の中にいるからです。人間に、肉体がある限り完全に自由になれないのと同じことです。
あちらを立たせばこちらが立たず、となりますし、人間の意識の限界もありますし、社会の仕組みやそれぞれの文化の慣習による心理的な制限もあります。
この問題を真摯に考え、自作に対する他者からの反応をしっかり受け止め、模索し続けることが制作者の責任であり、その模索のあり方は全くその制作者の自由なのです。
社会はいろいろな物事が連動して大きく動いていますから、誰か一人だけが他者とは無関係に野放図に振る舞うことは不可能です。社会においては自分の行動の完全自由を得るのは不可能なのです。
人間はそのように自由が制限されているわけですが、しかし、社会が無ければ、また、肉体が無ければ人間は表現どころか生きることも出来ないのです。
仮に、何か芸術作品を制作したとして、それを社会に公開しなければ作品はその存在を認知されないのですから、芸術家も社会の一員としてその法則に巻き込まれるのは当然の話です。そこで保証される自由は「ある範囲においての自由」であって、理論上の絶対自由ではありません。
だから、社会において、一部の芸術家の表現が問題になるのは
【構造的に制限のある“実社会”で、理論的な絶対自由の理屈を振り回す】
ことから起こると私は考えています。
事実として「構造的に制限のある実社会で理論的な絶対自由の理屈を振り回す作品」は、人間の精神や閉塞した社会構造を開放することは出来ません。それはただ自己満足で身勝手なものであり、取り巻きだけで喜ぶような閉じたものであることが殆どだからです。(芸術は自己満足だ、という説を私はとりません)
しかし、人間の精神や閉塞した社会を開放するような作品も存在します。
本当に個人だけでなく社会全体の意識を拡張するほどのものは、身勝手なものではなくもっと社会的に実効性があり、その新しい何かが産まれたことによって、古いものは自然に淘汰されるか、新しいそれが古いものを取り込みます。(細かく観察すれば、所々で事件が起こっていても総体で観ればそうなる)
それは、実社会で起こる現実の話であって、いわゆる芸術家の脳内のみの夢想や空想の話ではないのです。
だから何かを産み出し、それを社会に公開するのなら、人間が生活している「制限のある実社会」から逃げてはならないわけですし、後付けの理屈で言い逃れしてはならないのです。
何かを産み出し、それを社会に公開する人は、その社会の制限の中で、最大自由を獲得するように模索し続けなければならないのです。その行為自体に制作者の自由が含まれます。そして、その制作者の自由が他者へ伝播し、人々の精神をより自由にするのが芸術作品だと私は考えます。
仮に、自分の産み出したものが社会から拒絶されたのなら自分でそれを総括し、模索し、もう一度自分の足で立つしかありません。
それをせずに、何か批判や拒絶があると他人のせいにし、社会構造のせいにし、何かしらの陰謀のせいにし、現実から乖離する理論上の絶対自由の論理を振り回すのは、全く幼稚なことだと思いますし、そんな人の産み出すものに普遍的な力や説得力があるわけがないのです。
ちなみに、暴力的な妨害を受けた場合に、それでも自己責任として受け入れろは全く思っておりません。それは別の話で、そのような問題はもっと実行的なことで解決するしかありません。
芸術は、人の心や精神を高みに導いたり、高揚させたり、勇気づけたり、支えたりすることが出来ますが、直接的に何かが出来るわけではないのです。だから、芸術は芸術として尊いのです。
なので、芸術が刺激になって争いが起こり(しかし、争いそのものは芸術が直接的に起こしたものではないわけです)それが暴力として表れてしまう場合もあります。しかし、そうなるともう芸術は関係なくなってしまうのです。切り離されてしまう。そうなった場合は、もう芸術や言論の力で直接的に収めることは不可能になります。
また、当たり前ですが、社会に波風を立てない、社会や権力に忖度したものを作れ、という意味ではありません。
「超正常」から産まれたもので、力が強く、それは社会に有用であるのに、新しく実行的過ぎて社会がついて来れずに社会から反発を受けることはあります。
それは、本来の「創作者」の仕事でしょうし、真の創作者の精神はその反発に負けることはないでしょう。仮に中途で身体が力尽きたとしても。