機械でやった方が良いものは機械でやった方が良い
手でやっていたものが、機械でもっと精度高く出来るようになった、そして完成度の高いものが大量生産出来るようになり、価格が下がって社会の人々が幸福になった、めでたし。
しかし、それまで手作りでそれを生産していた人たちと、その技術は淘汰されてしまった。
・・・私自身は手作り品を生産/販売する事を生業としているのですが、それで何も問題無いと考えております。伝統工芸品の分野においても手作りだから本物なんて考えは全くありません。
以前「良い」とされていたものが、もっと良いものが出てきて淘汰された=自然の摂理だからです。
例えば着物の染で例えると
反物を、総柄に染めるとします
となりますから、当り前の流れと言えるかと思います。
もちろん、機械制作の廉価なものを手づくりの作品だと「嘘」をつき高く販売するのは絶対にしてはならない事ですが・・・
手仕事に限らず、最近はChatGPTなどが出てきて人間は高度なAI技術と張り合っても仕方がないから上手く使いこなすしかない、という状況になっています。
白内障の手術でも、ギターのフレット調整でも、今は殆どのケースで機械の方が精度が高くなりました。しかしもちろん、出来上がって来るものに対する判断は人間がするのですから機械に丸投げで解決とはなりません。言うまでもなく機械は万能ではなく、人間は自ら新しく開発した機械を使いこなすスキル・・・「以前と違うスキルを身につける必要がある」あるいは「今までのスキルに、新しいスキルを付け加える必要がある」わけです。
手作りのものは良くも悪くも人間の郷愁に訴えて来ますから、それが無条件に素晴らしいものであるという価値観に陥りがちです。そういう人間の感情の特性を生産者/技術者は自覚しておかないと、社会が進化し、色々な技術が生まれ、より良いものを生み出せるようになっても間違った方向に逸れて行き勝ちです。
過去を振り返ってみると、時代の変換期に、価値観をキチンと整理しておかないと、後々面倒になるようです。
例えば・・・
手づくりのものでも、超絶技術で成されたものがあります。それに「人間が機械と同じようにも出来る、どうだスゴイだろう!」と意味付ける方向もありますが、しかしそれは「その超絶技術で生まれたモノの良さ」と直結するとは限りません。それだと絵画などで良くある「へーすごいねー写真みたいだねー」という薄っぺらい評価になってしまいます。
それだけでは説得力として弱いとなると、そこにコンセプトを付け足し「いや、これは機械でやるような事をあえて人力でやる事による、現代人が失った肉体性を取り戻すためのある種のイニシエーションであり・・・」などとやってしまうと「終わりのないコンセプト遊び」になってしまうので収集つかなくなります。それでは結局、その作品が美的に良いものだとしても、その本当の良さは伝わらないのです。それはもったいないですよね。
元々、手作りのものと、機械生産のものは、単純に性質が違うだけで「どちらが優れているか」「どちらがより尊い存在か」という比較は出来ません。美的な面においても、それぞれの良さがあります。ですからその特性を過不足無く把握し説明すれば良いだけの話なのですが、どうしても「自分の方が優れている」となり勝ちで揉めますね。
例えば、写真が出てくる前の絵画は、記録の意味も多いにありました。しかし写真が発達して来ると、その記録の面は写真が担当する事となり、絵画は別の意味を持ち、別の発展をします。そして、写真は記録の用途だけでなく写真芸術として発展して行きます。
しかしそれでも絵画の写実表現は残り、それを愛好する人がいます。それは写実の絵には独自の魅力と、それでなければ成せない表現があり、それが人々から必要とされるからです。
そのように、あらゆる「人為と人工物」は常に変化しつつ社会に溶け込んで行き、逆に必要なくなったものが淘汰されたりするわけですね。(それはモノだけでなく価値観なども含みます)
「社会は常に変化している事が自然」であり、固定してしまっている状態はむしろ不具合が起こっている時ではないでしょうか。
私は個人的には「手作り信仰」に甘えない姿勢で「手作りでしか出来ない事」を作品と理論でキチンと証明しないと手作り系伝統工芸は社会一般に「現役の文化」として認知されないと思っております。