早朝のたより
朝四時。日の出前のこの時間、外ではカラスが鳴き始める。子供を起こさないようそっと寝床を抜け出し、大好きな冷たいカフェオレ(豆乳オレのほうがローカロリーなのは知っているが、やっぱり牛乳で作ったカフェオレのほうが美味しい)とノートパソコンを持って洗面所へ。風呂の入り口にバスタオルを敷いて腰掛ければ、あっという間に「自分ひとりの部屋」の完成だ。リビングはいけない、漏れる光と物音で子供を起こしてしまうから。急げ、急げ。子供が起きるまであと何分あるだろう。
いつだったか、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を手に取ったことがある。平凡社ライブラリーのものだっただろうか。でもその時は途中でよくわからなくなり手放してしまった。ばかばか、あの時のわたし。そこに書いてあることを、よくよく読んでみるべきだったのだよ。といっても、あの時読了していたからといって未来がどれくらい違っていたかは、分からないけれど。
洗面台にはいろんなものが雑然と置いてある。歯ブラシが何本か(なんでそんなに?)、夫の髭剃りフォーム、買い置きの髭剃りクリームや洗顔料(洗面台の下にしまいたい)、目をぱちぱちして洗うやつ、うがい薬(最近使ったかしら)、うがい用のコップ(出産入院で使ったわたしのやつを置いたので、夫婦別々のを使っている)、ハンドソープ、シェーバー、ヘアブラシ、そしてシンクにはさっき持ってきたカフェオレ。床においてもいいのだけれど、ひっくり返してしまうのが怖い。
夫がお手洗いに起きてくる。そうだ、ここはほんとうの「自分ひとりの部屋」じゃない。・・・夫はまだ出てこない。寝室から子供の唸り声が聞こえる。起きたのだろうか。でもまだ本格的に目覚めたわけではないようで、そのまま静かになる。夫が寝室に帰ってゆく。「せせらぎの音」が聞こえて、次第に落ち着いて・・・そうだ、本格的に寒くなる前に、お天気のいい日を選んで本物の海を見に行こう。冬の海は寒い。冬に海辺へ行くと、冷たい風が全身を殴りつけてくるから。
2023年10月はずっとざわざわしていて、作品作りも思うようにできなかった。爆発しそうになる感情を読書や書き物にぶつける日々だった。今は少し穏やかになったけれど、それでも、いまだに胸の真ん中を細い溶岩流がずるずるどろどろしているような気がしてならない。ああ、季節のせいもあるかもしれない。冬は近い、養生せよと体の奥で誰かが叫んでいる。久しぶりに熱いお茶を飲みたい。
自分が今の生活に満足しているのか、それとも大いに不満なのかが、よくわからない。恥ずかしいことだけれど、自分と似たような生活をしていて、「うまくいっているように見える人」に対して、ものすごく嫉妬してしまう。比べてもなんにもいいことはないとわかっている。その人だって、そこにたどり着くまでに泣いたり笑ったりしているはずだということも分かっている。でも嫉妬するということは、向上心があって、自分も同じ場所にたどり着けると思っているということ。だったら、今度は他人じゃなくて自分自身に目を向けなければ。例え気が進まなくても、嫉妬している自分を正面から見つめて、自分は何をしなきゃいけないのか本気で考えてみる必要がある。
かと思えば、わたしは
「秋刀魚より小さな皿と暮らしけり」
という俳句で、「NHK俳句」2023年11月号の夏井いつき先生選で佳作に入選、「作者のつつましくも満ち足りた生活をも想像させる」というコメントまでいただいてしまう。同時に
「高跳びのバーをどんどん下げてゆきこの子とまたぐ手と手つないで」
という短歌で、「NHK短歌」2023年11月号の山崎聡子先生選で佳作に入選。どちらも飛び上がるほど嬉しかったけれど、ふたつの作品がどちらも縮んでゆく小規模な生活に満足している人の姿を詠んだものであることに、自作ながら驚きを隠せないでいる。この作品を作ったのは、そして、このままじゃだめだと思い続けているのは、いったい誰なのだろう。体の真ん中にざっくりとなたを入れて、満足できる人間と満足できない人間に分かれることができたらいいのに。
あっという間に六時半。
もうカラスは鳴かない。代わりに時々スズメのさえずりがきこえてくる。『自分ひとりの部屋』、もう一度読んでみよう。今度こそ自分の本になるように。どうやら今日も地球は青いようだ。