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"ヨゴレタクナイ"
「あなたには純粋でいてほしいから」
「あなたにはこんな汚れたものは見せられない」
中学くらいからだろうか、そんなことを友人から言われるようになった。
高校に入って環境ががらっと変わってもそれは続いて、最早自分自身で汚れたくない、純粋でいたい、と思うようになってしまった。
汚れないということが何を意図するか、明確なことは考えてはいなかったけれど、漠然と悪意だとか性だとか、そんなものを自分の内側から排除しよう排除しようと、懸命になった。
ずる賢くなりたくなかったし、公正さを持ち続けていたかったし、誰かを悪者にしたくなかった。
その結果が、人を責めない、悪いのは自分、自分にも悪いところがある、全部自分のせい、という風に変遷してしまって、今があるんだろう。
「大人になったらみんな図太くなるの」と、多くの人はいうけれど、自分だけはそうなりたくないと、思い続けてきた。
おばちゃんになれば我を通すようになるとか、声が大きくなるとか、言われることも多かったし、そういう人も多かった。
それでもそうなりたくなくて、絶対ならないと信じて、自分の中の清らかさや白さを頑なに守り続けた。
その一方で、生きづらさを抱えているであろう友人は、そういうものを少しずつ取り込んでいく自分は以前よりも生きやすくなったと呟いた。
正解なんてないのは、わかっている。
このまま潔白で居続けようとすることも、間違いではない。
ただ多くの人が段々そうなっていくのは、自分なりの生きやすさを少しずつ形にしていこうとした結果なのかもしれない。
我を通したいわけではないけれど、自分を押し殺すことは苦しい。
声が大きくなりたいわけではないけれど、声が小さい自分でいることは色々な損失を生み出している。
(声の大きさに関しては、自分で変えたいと思って変えられるならとっくに変えている、かもしれない)
白さを頑なに守るよりも、少しずつ色味を足していくことの方が美しいのだろう。
そう思いなおしたところで、私はやっぱり自己主張ができないし、自分を責めるし、声が小さい。
本気でこれを変えようと取り組んでも、周りの普通に追いつかないくらいなんだと思う。
それでも、きっとそれには価値がある。
なりたい程ではなくても、極端に白さにこだわる自分を変えるなら、少しくらい反対方向に極端になろうとしたところで、白さに大きく傾いたままなのは変わらない。
白い自分でいたいけれど、それで立ち行かなくなるくらいなら、ちょっとだけ黒い絵の具を混ぜて、戦える自分を創り出そう。
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