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「あなたはどうしたい?」

先日、"何か問題が起きたときに「あなたはどうしたい?」と聞いてくれて、自分ときちんと向き合ってくれる感じがしたからリクルートの人と結婚した"というツイートを見た。
私の恋人もこのタイプだ。
なのだけど、これは本当にいいことなのか、正直わからないところはある。

自己がしっかりとある人なら、それは理想的かもしれない。
でも、自己がない私はそれに対してひたすら困惑してしまう。
えっ私どうしたいんだろう。
この人はどういう答えを求めてこういう質問をしているんだろう。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回る。
本末転倒な思考を繰り返した末、出てくる答えは自覚的になんとなく的外れなものばかりだ。

「どうしたい」が本当にないように思えることもあるのだけど、それよりも自分の思う"こうしたい"がどう思われるか気になってしまって正直に言えないことが多々ある。
これは物凄く些細なことからそうで、「何が食べたい」とか「どこのカフェに行きたい」とか、そんなことから上手く言えない。
つくづく扱いにくいだろうな、とは思いつつ。

私が「どうしたい」を言えないのは、この"どう思われるかが過度に気になる"と、あとは"そもそもそれについて考えたことがなかったので考え不足が故に今この場で答えることができない"のどちらかがだいたい当てはまる。
思考力が足りないと感じているのはこの点で、考えるべきことを考えるべきことだとそもそも気が付けていない、ということが往々にしてある。
だから、そういう時に「どうしたい」に答えるためには、もっとゆっくりと考えられる時間が必要だ。

noteを始めてから7か月半が経過した。
始めて考えを言葉にする習慣が出来て、自分で気が付けていないことにたくさん気が付くことができるようになった。
言葉に一度しておくということはその周辺に関して考えを一度巡らせておくということだから、語れる物事が少しずつ増やせる。
今こうやって"考えたことがないことが多くて話せないことが多い"と認識していることだって、こうやって思考を言葉にしていなかったら認知することもなくなぜか何に対しても考えがないと嘆いているばかりだったと思う。

自分のなかにある言語化できない何かを、誰かが感じ取って叶えてくれることは理想だけど、人間はテレパシーを使えない。
だから自分の考えを自分で認識して言語化して、相手に伝える過程が必要だ。
他者とより良い関係をつくっていくためには、自分がどうしたいのかまず認識して、相手とその考えを共有して、その先どうするか考えていくことでお互いにとって納得する未来を描くことができるのだろう。
「あなたはどうしたい?」に答えていくことは、関係性を投げ出さずにより良い生き方へと向き合い続ける姿なのかもしれない。

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