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打たれ弱いまま生きていく

打たれ弱さに悩んでいる。
怒られ慣れていなく、自分を責める思考が自然に進んでしまうくらい刷り込まれ、怒られないための行動を繰り返し、そういうつもりがなくても過剰に自分を責めて頑張れない言い訳を創り出してしまう。
これは20代後半の今ものすごく大きな壁として出てきているけれど、もともとは自分を守るために必要だったことだった。

誰かに対して怒りを向けることが、汚らわしいと思っていた。
でも誰かを責めないためには、自分を責めることでしか理屈を通すことができない。
"あの人のせいで"を徹底的にやめた先に待っていたのは、"私のせいで""私にも少しは非があったに違いないから"という思考だった。
それは辻褄を合わせて自分を納得させることができ、他人を責めない理想の自分になれたかのように見えたものの、行きついた先はただ打たれ弱い自分だったのだと思う。

他部署の過ちで残業していた時、当時仲の良かった先輩方と"誰かに対して怒りを感じることはないのか"という話になった。
「あなたは怒らなさそうだよね」という先輩に、「何かあった時真っ先に自分を責めちゃうから人に怒りを感じられないんです」という話をした。
「でもそれって健全じゃないから、怒りを正しく誰かに対して感じられる方がいいんだと思います」と、20代前半のあの頃、そう返答したことを覚えている。
あの頃感じていた不健全さは、大人になればなるほど自分を締めあげてきた。

打たれ強くなるためには、怒られ慣れて、"それでも大丈夫"といえる強い自分をつくらなければいけない。
そのためにはまず、"大丈夫"な自分でいなくてはならない。
打たれ強くならないと頑張れる前提条件にすら立てないように思えてしまう。
そうするためには、意味もなく過剰に不用意に自分を責めることを辞めなければならない。
だけどここまで自分を守るために作りこんできた思考は、そう簡単には捨てることができない。

少年Bさんのこのnoteが好きだ。
打たれ弱いからできないことが多い、基盤がなくてすぐに泣いてしまうせいで上手くいかないと、ずっと思ってきた。
でもきっと、それは頑張ったところですぐに変えられることではない。
だからこそ、できないままでもできないなりに気を付けて相手と歩み寄る姿勢を大事にしていくことで、今より少し上手く歩けるようになれる可能性が高まる。

相手は「できないこと」に怒りを感じているわけではない。
「相手にやってもらって察してもらって当然で、それが当たり前であるかのように振る舞う姿勢」に怒っているのだ。
できないなりに、それでもなんとか気を付けようとがんばっているやつのことを頭から怒る人間は、まぁ正直いるけども、そんなに多くはないとおもう。

打たれ強くなることは多分、しばらくはずっとできないことになってしまうだろうけれど。
でもそこに気を使ってもらうことを当たり前と感じずに、打たれ強くなろうと、それでも負けずについていこうと、そういう姿勢を失わずに持ち続け食らいついていくことで、相手に諦められないようにすることはできるのではないだろうか。

すぐに強くはなれないから、きっとまだ自分自身と物事や事象を切り分けられずに泣いてしまうことはたくさんある。
それでも落ち込みを過剰に引きずらずに、そこで切り返せなかったとしてもその先を受け入れ改善していこうという姿勢を見せ続けることで、相手からの印象や見られ方も変わってくる筈だ。

"あの子は弱いからダメだよね"ではなくて、"あの子は弱くてもきちんと向き合って強くなろうとしているよね"と、感じてもらえる自分になるために。
弱いままでも、少しずつ強い明日へと向かって歩いていく。

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