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「道具」という言葉の、血の通ったぬくもりの理由は。
「道具」という言葉にどのような印象をお持ちだろうか。
「道具のように扱う」のような使い方をすると、少しマイナスな、冷たい印象を受ける方が多いのではないかと思う。
ものを作る人間にとって、道具は相棒であり、仲間であり、友人だ。家族と言ってもいいかもしれない。
私の場合は、鉈と鋸がメインだろうか。
ほかにも、小刀とか幅引きとかノギスとか、言い出すとキリがない。
どれももう10年近くいっしょにいる大切なものたちである。
大学で文化財の保存修復を学んでいた頃、教授によく言われた。
「お箸をきちんと持てる人間でいなさい。」
小学生みたいな話だが、ものを扱う姿勢を常に教えてくださる方であった。
あと単純に、「箸も持てない奴に大切な文化財の修理を任せる人はいないぞ」ということでもあったのだけど。
間違いない。一層気をつけた。
品物にメンテナンスが必要なのと同じで、道具にも細かな気遣いは欠かせない。
私の場合は油を塗ったり研いだりという作業。
肩は凝るが、しゅ、しゅ、という音を聴いているのは耳に楽しい。
研ぎはとても奥の深い作業で、これひとつで切れ味は全然ちがう。
特にハサミは2本の刃が実は片方真っ直ぐでなく、微妙にカーブしているので研ぐのがとても難しい。
ハサミ専門の研ぎ師がいるくらいなのだ。
私にとっては刀身の長い包丁などもまだまだ難しく、一度なまくらにして妹に怒られたことがある。
そして、道具を研ぐのに使った砥石を研ぐための砥石なんかもあったりして、それはもうどこまでも続きそうだ。(これは刃物を研いで平らでなくなった砥石の面を平らにするための作業。「面(つら)出し」という。)
それから、ちょっと脱線したみたいな話をするが、私の地元にはまだ犬といっしょに狩りをする人々がいる。その人たちの姿勢が「道具」というものに対する姿勢としてとても印象深いのだ。
彼ら(少なくとも私の知る彼)は行動を共にする犬たちを、「生きるための道具」と言った
生き物を道具に例えるのはどうだろう、と思われる方もおられるだろう。冒頭の言葉も冷たさもそれゆえのものである。
ただ彼らは、仕事仲間として犬たちと接する。
とても対等でフェアな関係性。
そして、万が一、狩りの途中でミスをして犬を撃ってしまった場合。
彼らは猟銃を置く。狩人を辞めるのだ。
自分の道具も大切にできない者に使う資格はない、と。
これは極論かもしれないが、道具というものは本来、こういうもののことを言うのだと思う。
こういう人々やたくさんの作り手さんに出会って、そして自分が作る立場になって、冷たかった「道具」という言葉は私の中で少しずつ血を通わせ、今ではすっかりあたたかなぬくもりを帯びた言葉になった。
本当に、使い手次第、使い方次第。
細かな気遣いや愛着を思うと、良いものをつくる人に共通した姿勢のように思う。
少なくとも私が今までに出会った作り手の方々の中で、道具を邪険に、愛なく扱う人を私は見たことがない。
そこにあるのは愛情と敬意だ。
人に向けるそれと何ら変わりない。
それらは、その人の作るものに現れる。
思えば言葉だってそうだ。
柔らかく丸く、思いのある言葉を使う人の周囲は、やはり人も気配も物も雰囲気もそのようになると思うのだ。
そういう人間でありたい、と思う、今日はちょっと鉄っぽい匂いのする私である。