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繊維の種類36:生糸の歴史

おはようございます。
今朝は東京は0℃から始まり、午後からはかなり久しぶりに雨が降るらしい。ただでさえ仕事始めなのに、帰りの時間雨降りで萎える人もいそうだけれど、まぁお休みの日はずっと晴れてくれていたし良しとしよう、

さて、布の素材として動物繊維の種類を毛繊維、絹繊維、羽毛繊維それぞれに分けて、今日は絹繊維、その名を冠したシルクロードが生まれた歴史を見ていこう。

シルクの歴史

中国での起こり

絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。
伝説によれば黄帝の后・西陵氏が桑の木陰に座ってハーブティーを楽しんでいた時突然彼女の飲み物に蚕の繭が落ち、怒った皇后は彼女のボウルから繭を取り出すとそれがほどけ始めて糸が無限にあることを発見。そこから絹と織物の製法を築いたとされている。絹が生産された記録としては、河南省賈湖の墓の遺体サンプルに絹由来と考えられるフィブロインの残留物が見つかったことから、少なくとも8500年前頃(5000年前とも)には存在していたと考えられる。現物として出土した絹としては、河南省青台村から紀元前3630年頃の中国絹(紗)が見つかっている。

少なくとも前漢の時代には蚕室での温育法や蚕卵の保管方法が確立しており、現在の四川省では有名な「蜀錦」の生産が始められていたという。その他釣り糸、弓の弦、楽器の弦、紙の代わりなどにも使われた。漢の時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀)には、中国では絹が普遍的な素材となり、北宋時代には公的需要の高まりに伴って両税法が銭納から絹納へと実質切り替えられ(1000年)、農民は税金の支払いに、国家は役人に絹で給料を支払いました。
戦国時代(紀元前475~221年)には、絹や絹製品がさらに大衆の手に渡りやすくなり、養蚕、刺繍、織物の染色などの技術が普及しました。古代中国では、各省が独自の絹を作り、その省の名を冠した絹織物が作られていました。しかし、中国の主要な養蚕の中心地は黄河、長江、四川省に沿っていました。
6世紀半ば、北魏の『斉民要術』によれば、現在の養蚕原理がほとんど確立していた事が判明している。

漢の時代(紀元前2世紀中頃)には絹の生産量が大幅に増加し、貴族の家には皇室の工房を模した工房があり染料の輝き、刺繍の豊かさ、完成度の高さには既に目を見張るものがあった。やがて、養蚕の隣国への進出が始まりました。

シルクロードによる広がり

一方、他の地域では養蚕や絹の製法は伝わらず、中国から陸路・海路でインド、ペルシア方面に輸出されていた。これがシルクロード(絹の道)の始まりである。
唐時代(618-907)の中国絹は、新疆、トルファン、タジキスタン、北コーカサスで発見された。発見された織物は、当時の貿易が活発に行われていたことを証明しており、同時に、大量の中国絹がシルクロードを経由してヨーロッパに持ち出されたことを示している。

絹が初めて中国との国境を越えたのは、紀元前2世紀に中国の張騫が中央アジアの国々を訪れた時のこと。貴重な織物を積んだキャラバンが西方に向かい、古代のルートにシルクロードという名前を与え、徐々にシルク貿易は近隣諸国へと拡大していった。韓国や日本、そして後にはインドやペルシャへと、シルクは船やキャラバンによって山や砂漠を越えてヨーロッパにも送られた。しかし、貿易の発展にもかかわらず、中国は何世紀にもわたって絹の生産を秘密にしており、蚕を国外に持ち出そうとすると死刑になるなど徹底してそのノウハウと蚕を独占した。
当然他の国々でも絹を生産しようとする試みが数多く行われました。
ヨーロッパの大物たちは、素晴らしい生地のマットな輝きを賞賛していましたが、それがどのように作られたのかを理解することができませんでした。ローマの詩人ウェルギリウスは、シルクは葉から梳かれたものだと信じ、ギリシャの歴史家ディオニュソスは、花から作られたと考えていた。そもそも彼らが蚕を知っていたかどうかもわからないが、蚕を知っていたとしてもあの細い繊維が糸になり布になるとは到底信じられなかっただろう。

紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されているほか、古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、紀元前1世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国にまで達した。だが、同量の金と同じだけの価値があるとまで言われた絹に対する批判も強く、初代ローマ皇帝アウグストゥスは、法令で全ての絹製衣類の着用を禁止した。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したが、それでも絹の人気は衰えることはなかった。

ヨーロッパでの生産

絹の製法は6世紀に、ネストリウス派を通じて東ローマ帝国に入った。中世ヨーロッパでは、1146年にシチリア王国のルッジェーロ2世が自国での生産を始め、またヴェネツィアが絹貿易に熱心に取り組み、イタリア各地で絹生産が始まった。フランス王国のフランソワ1世は、イタリアの絹職人をリヨンに招いて生産を始め、のちに同地は近代ヨーロッパにおける絹生産の中心となった。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイングランド王国では、ジェームズ1世以来、何度も絹の国産化を試行したがことごとく失敗し、1619年にようやく成功に漕ぎ着けた植民地も17世紀にアメリカ合衆国として独立した。このため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが清との間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へとつながっていく遠因となったとする説もある。

日本でのシルク:輸入期

日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、生産は徐々に衰退していった(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の貴族階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたが、この頃東アジアに来航したポルトガル人が日中間の絹貿易を仲介して巨利を得た。

長年の戦乱などによる養蚕の衰退で、国産の蚕は専ら真綿にしか用いることができない低品質なものが大半であった。そのため、西陣や博多などの主要絹織物産地では鎖国後も高品質な中国絹の需要が高く、長崎には中国商船の来航が認められて、ポルトガル商人による利益独占を排除するため,輸入生糸を糸割符仲間と呼ばれる特定 の商人に一括購入・販売させるようにした(これが糸割符制度、糸割符仲間を構成する商人は当初京都・堺・長崎に限られていたが,1631年に江戸・大坂を加えて五カ所商人となる)。
しかし、寛永年間から品質改良が進められ、江戸幕府は蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが、幕府からの圧力にもかかわらず養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。
この結果、貞享年間(1685年頃)には、初めて幕府による中国絹の輸入規制が行われた。8代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わず全国で生産を奨励し、江戸時代中期には中国絹と比肩する品質にまで向上。このため、幕末から開港後は絹が日本の重要な輸出品となった。 明治維新後の1873年(明治6年)には、米欧歴訪中の岩倉使節団がイタリアを訪問しており、当時のイタリアの養蚕、生糸生産の様子を詳しく視察している。

日本でのシルク:輸出期

養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上で重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつである。ほぼ前後して清でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められた。元々国内での需要と消費が多く、生産者も多かった日中両国での機械化による生産量の増大は、絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えるという皮肉な結果になる。なお、日本と中国における最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場と寶昌糸廠(上海)の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師であるポール・ブリュナー (Paul Brunat) であった。日本は米国での営業を新井領一郎に頼った。

1909年、日本の生糸生産量は清を上回り、世界最高となった。 生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったが、1929年以降の世界恐慌では、世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化した(農業恐慌)。

欧米での代替繊維の開発

第二次世界大戦で日本、中国、ベトナムなど東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰した。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになった。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国からの輸入に頼っている。1998年の統計では、日本は世界第5位の生産高ではあるが、中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位のウズベキスタンも日本を大きく引き離している。2010年時点で、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は、国内では数社のみとなっている。その中で日本最大の器械製糸工場「碓氷製糸株式会社」に関して以下の記事は、生産方法もまとめられていてとても面白い記事になっているので、ここまで読んで生糸に興味を持たれた方は一読されることをお勧めしたい。

動物の毛のように(乱暴に言ってしまえば)刈ってしまえば良い、だけで終わらないこと、繊細な糸なだけに特別な技術が必要になることが、生糸が持つ高貴な光沢や肌馴染みの良さといった特徴と合わせて余計に生糸をより特別な素材にしてきたことがよくわかる。そして中国に端を発したシルクの生産は、長らく憧れ続けてきたヨーロッパの技術で飛躍的に伸びたことも、まさにアジアとヨーロッパ双方を繋いだシルクロードがあってこそ、という点で感慨深い。
だからこそ、高価格であるものの命をいただく布として大切に使っていきたい。

こちらの文章は以下のリンクを参考文献として使用しています。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。

皆様も、良い一日を。

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