紫がたり 令和源氏物語 第百六十七話 松風(四)
松風(四)
源氏は明石の上と小さい姫がすぐそこの大井の山荘にいると思うだけで居てもたってもいられず、すぐにでも会いに行きたい気持ちでいっぱいでしたが、近くなったとはいっても日帰りできるような距離ではありません。
政務を放り出すわけにもいかないので、まとめて時間がとれるよう調整しておりました。
いざ休みがとれるとなると、明石の親子のことばかりを想ってしまうのですが、紫の上になんと取り繕うかとそれもまた煩わしく感じられます。
桂の院に行ってくると何気なく告げて出掛けてしまえばよいのですが、いずれ他から明石の上のことが耳に入るのも具合がよくないので、いっそのこと話してしまおうと心を決めました。
「桂の院を人任せにしてあるので、出掛けようと思います。そちらに約束してある方もおいでなので、二、三日で戻れようとは思うのだが」
源氏の曖昧な言いように紫の上はそれだけ聞いて、明石の上がすぐそこまで来ているのだと閃きました。
なるほど近頃嵯峨野に御堂を建てているという話は聞いておりましたが、その辺りに明石の上を住まわせるつもりであったかと思うと不快な気分です。
「そうですか。斧の柄が腐る前にお戻りになるとよろしいですわね」
ついこんな皮肉が口を出てしまいます。
これは中国の故事で二人の仙人が碁を打っているのを見かけた通りすがりの樵(きこり)がその勝負の行く末が気になり、見入っていると、気付いた時には斧の柄が腐り、自身もよぼよぼの爺やになってしまっていたというものです。それほど長い間待たされるのでしょうか、という皮肉が込められているのでした。紫の上はすぐに自己嫌悪に陥りましたが、口から飛び出した言葉は戻ることはないのです。
なんと厭わしいことか、と目をそらして御座所へと引き籠ってしまいました。
源氏はこんな紫の上の心が困ったものだと内心思っておりました。
君は例のごとく紫の上の心を推し量るよりも、昔ほどの浮気沙汰はもう控えているのだから見逃してくれてもよいものを、と都合よく考えているようです。
平安時代は男尊女卑の激しい社会でした。
男性は多くの妻を持つことを当たり前のように考え、女性たちを支配しておりましたが、女性たちとてひとりひとり心を持った人間なのです。
しかし時として男性からはそのように考えられない悲しい存在なのでした。
己の裡に湧き上がる暗い翳りは紫の上の心を蝕んでゆきます。
「ああ、わたくしは本当に嫌な女になってしまったわ」
誰に向けたわけでもないそんな独白を聞いた少将の君は同情する眼差しで主人を励まします。
「女にだって心はあるのですもの。男の浮気を憎むのは当たり前ですわ。元気をお出しになってくださいまし。わたしに言わせてみれば御方さまの皮肉なんて小鳥のさえずりのようにかわいいものですわ」
「小鳥のさえずりだなんて」
「中には悋気で夫にできた新しい女を呪う女人もいるらしいですわよ。巷では丑の刻参りというのが流行っているらしくて」
「まぁ」
「何でも丑の刻に貴船の御社に詣でて人形に五寸釘を打ち付けて呪うのだそうです」
「これ、少将。あなたはまたくだらない噂話ばかり。御方さまのお耳汚しになりますわ」
「少納言さま、だって考えてみれば恐ろしいお話ではありません?呪った女人は鬼になってしまったのですって」
「およしなさい、というのに」
乳母の少納言が怖い顔をするので、少将は舌を出して口を噤みました。
「わたくしもそうならないよう気を付けるとしましょう」
紫の上は苦笑しているうちにも何故だか毒気を抜かれたようで、いつもの様子を取り戻しました。
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