紫がたり 令和源氏物語 第百五十四話 関屋(四)
関屋(四)
空蝉は京に戻り、平和な日常を取り戻しましたが、夫の常陸の介は床につく日が多くなりっておりました。
かなりの高齢ですので無理からぬことではありますが、懸命に看病する空蝉は心から夫の回復を祈り、尽くしました。
晩秋の寒さが都の紅葉を染め上げたある朝、常陸の介は危篤状態に陥りました。
子や孫、一族たちが次々に見舞いに訪れ、その中には息子の河内守(かつての紀の守)もおります。
「義母上、きっと父上はこの峠を乗り越えるでしょう。心をしっかりもってくださいね」
などと、空蝉に優しげに声をかけるのは、下心あってのことか。
ふいに意識を取り戻した常陸守は、枕元に控える子供たちに、苦しい息を繋ぎながら懇願しました。
「よいか、子供たちよ。私が身罷ってもけしてこの人(空蝉)を粗略に扱ってはいけない。私が年甲斐もなく若い妻を娶ったと周りでは揶揄する者も多くあったが、本当にこの人はよく尽くしてくれたのだ」
「父上、悲しいことを仰らないでくださいまし。どうかまた元気になってください」
河内守は長子らしく、父親を励ましました。
「あなたを遺してゆくのがどれほど辛いことか」
常陸守は空蝉の手を握りしめて涙を流しました。
かつては豪の者といわれた力強い夫が今は見る影もなく痩せて、自分を想って泣いている、そう思うと空蝉も溢れる涙を止めることはできません。
「わたくしを置いていかないでください、あなた」
「くれぐれもこの人を頼むぞ、子供たち」
常陸守は掠れた声を絞り出すと、そのまま息を引き取りました。
空蝉は寄る辺もないこの身の上が一体どうなってしまうのか、と目の前が暗くなるのでした。
常陸守の遺言もあり、息子たちは最初のうちは空蝉を気にかけて援助してくれておりましたが、所詮は血のつながりもない者同士のこととてだんだん肩身が狭く感じられることが多くありました。
それどころか長男の河内の守は以前から継母によこしまな想いを抱いていたので、父が亡くなった今となっては憚ることなく空蝉に言い寄っているのです。
それが辛くて、情けなくて、空蝉はまだ若い身空で突然出家してしまいました。
振られた河内の守は、「貞女ぶって」などと陰口を叩いているようでしたが、密かに源氏を慕い続け、これ以上意に添わぬ者に従うことなどできぬと諦めた女の潔さを誰も知らないのです。
衛門の佐は源氏と空蝉の恋を知るただ一人の身内です。
この恋が終わったことを源氏に告げる者があるとすれば、それは自分以外にはいまい、と御前に伺候しました。
「そうか。空蝉が世を捨てたか・・・」
「私は姉上の煩悶を目の当たりにしてまいりました。軽んじられて義理の息子に言い寄られるなど、姉の矜持が許さなかったのだと思います」
「賢しくて、鮮やかな引き際だね。実にあの人らしい」
「何より、君を想ってのことかと」
「そう言ってくれるか」
「はい。姉は己の運命を受け入れておりましたが、この期に及んで自らの心に嘘をつけないと悟ったのでしょう」
源氏はどうして早くに手を差し伸べなかったのか、と悔しく思いました。
しかしながら河内守の邪な懸想などの事情などを把握し、きっとあの誇り高い女人にはこの選択しかなかったのであろうと納得しました。
落飾した女人は華やかな衣は身に着けることは許されませんので、せめて上質なものをと袈裟などを仕立てさせ、立派な仏具一式を整えて贈りました。
そうしてまたひとつの恋が掌から零れ落ちるように消え去り、時の流れに打ちのめされる源氏の君なのでした。
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