紫がたり 令和源氏物語 第百九話 須磨(十六)
須磨(十六)
さて、播磨は明石の浦に“明石の入道”と呼ばれる人がおりました。
現在の播磨守は源氏の側近・源良清の父ですが、先の播磨守を務め、出家して明石に隠棲しているのです。
入道には十八歳の妙齢な娘がおります。
大切にかしずかれ、都の貴族の姫にも負けないほどの教養を持ち、見目形も麗しいという噂でしたので、地元の富豪や名士からの求婚が殺到しましたが、入道はどうしても結婚を許しません。
良清も長年想いを懸けてきた姫で、色よい返事がもらえずやきもきしておりましたが、どうやら入道は都の身分高い方に姫を縁付けるという大望を持っているようでした。
娘にも仮に先に自分が亡くなるようなことがあれば海に身を投げ海龍王の后となれ、と言い含めているということです。
このような田舎でそんな話があるわけがない、と世間は入道を嘲笑していました。
そのような折に入道は源氏の君が須磨にて慎んでおられることを知ったのです。
「源氏の君をこの明石に迎え、姫を奉る。心して準備をしておきなさい」
突然の入道の決断に妻と娘は動揺しました。
「あなた、源氏の君は都に身分の高い愛人が多くいると聞きます。しかもこの度の須磨での蟄居は帝の寵姫と過ちを犯したからというではありませんか。そのような方が姫を娶られるとは思えません」
入道の妻は夫の気がどうにかなってしまったのではと首を傾げます。
「お前にはわからぬだろうが、これが宿縁というものなのだ」
「どのように立派な御方でも罪を蒙って流罪になった方に姫を差し上げるのは賛成できません」
妻は娘が可愛くて仕方がないので、これから先復権できるかどうかもわからない君に娘を嫁がせるなどは容認できないのです。
「浅薄なことよ。唐(もろこし)にもよくある話ではないか。源氏の君のように抜き出て優れた人が罪を得るということは珍しくはないのだ。あの方の母君・桐壺御息所は私の叔父の娘であった。身分はさほどでないものの、優れていたために帝の寵愛を一身に受けられた。女は矜持を高く持ち身を処すれば出世できるのだ」
「でも御息所は后達の嫉妬で若死にしてしまったではありませんか。死んでしまっては元も子もありません。納得できません」
妻は凡庸な夫でも姫が幸せに暮らして孫をもうけてくれるのが一番だと考えております。
「私は姫をこのままこの浦で朽ちさせたくはないのだよ」
父と母の言葉を黙って聞いていた娘は物憂げに目を伏せました。
その容貌に華々しさはありませんが、上品で美しい有様です。
この姫は聡明で自分の立場というものをよくわかっているのです。
父は無位無官の入道、このような田舎暮らしに埋もれた己に尊い源氏の君が惹かれるとは到底思えないのでした。
かといって母が望むような凡庸でつまらない男を夫とするのも本意ではありません。
父や母に先立たれたら潔く尼になるか、海に身を投げて死のうと心に決めております。思慮深く自我をしっかりと持っている姫なのでした。
入道はそんな娘の心裡を顧みず、唯一の顔見知りである源良清に「お話があります」と文をしたためました。
良清は何事かと思いましたが、娘との結婚を許すものとも思えなかったので、その手紙は打ち捨てられたままでした。
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