【ゆる批評】岡崎京子『pink』とマリリン・モンローと『ティファニーで朝食を』について
最近、岡崎京子にハマりまくっている。
レポートと修論研究等々、そっちのけで読みまくっている。
きっかけは、燃え殻さんの『ボクたちはみんな大人になれなかった』を読んで90年代のポップカルチャーに少し興味を持ったこと。
で、書籍『1990年代論』を大学の図書館で借りてみた。
この書籍の中で五所純子氏が岡崎京子のコミック群とゴダールについて、それから岡崎京子の漫画の主なるテーマ、資本主義、愛、東京について超超超私の心にぐっとくる評をされていて、読み始めた。
そういえば、私が高校1年生の時、つまり2012年に蜷川実花監督映画『へルタースケルター』を劇場に観に行った記憶がある。(あの鮮やかで妖しい画面とエグ過ぎる人間心理とセックス描写はプチトラウマになった。)
主演は沢尻エリカで、主題歌は浜崎あゆみの『evolution』(新しい音楽が良いってわけでもないんだね!)
中でも、結局これがスキ!と思ってしまうのは89年連載、出版の『pink』。
おとぎ話みたいな語り口調と痛快さ
『pink』は、夜はセックスワークに従事するOLのユミちゃんが主人公。
彼女はマンションの自室でワニを買っている。
ユミちゃんは小説家志望の大学生のハルオくん知り合い、体の関係を持つけれど、彼はユミちゃんと犬猿の仲の継母の愛人だった。
何が最高って、ユミちゃんは典型的なマテリアル・ガール。
拝金主義で尻軽な、マリリン・モンローが歌うDiamonds Are a Girl's Best Friendを体現してる女。彼女達は恋に落ちない。金にしかなびかない「ことになっている」。そんな女、現実にはいないと思うけれど。
男に対して一切の情を見せない。
ハルオ君に悲劇が起こったときにも「カンケーない」、「どうでもいいそんなこと」と言ってお菓子を頬張るユミちゃん。
ユミちゃんの継母や、ハルオくんの同級生の女の子彩子がハルオ君の心と身体(というかセックス)を手に入れようと必死なのとは対照的にユミちゃんはハルオ君の「何も」欲しがらない。
ハルオ君が誘っても、気が乗らなければ彼女は身体を開かない。
いいよね!こんな女になれたら。
むしろ、こんな真性ドビッチ女が、前述のユミちゃんの継母だとか彩子ちゃんだとか、中途半端なビッチをこてんぱんに一掃する痛快さが私は最高に好きだ。
彩子ちゃんは、ハルオ君にお弁当を作ってくる。
通りすがりの文学について語る大学生を一瞥して、
とハルオくんに息巻く。(まるで自分はハイカルチャーよりマスカルチャーを享受するマテリアル・ガールよ!とでも言うように)
その割に彩子ちゃんは勝手にハルオ君の家に上がり込み、料理を作るという古女房じみたことをして、ハルオ君に迷惑がられる。
ハルオ君の跡をつけ、ユミちゃんの家までたどり着く。
そこで、ハルオ君とセックス。
直後、ユミちゃんの部屋にいるワニを目撃して失神してしまう。(結局、ユミちゃんの怒りを買って記憶を消される。)
ユミちゃんは、ハルオ君が自分の部屋で他の女とセックスしたことに、ではなく「自分の可愛い部屋を汚されたこと」、「自分の大切なワニをムカツク顔をした女に見られたこと」に腹を立てる。
相手に何も期待せず、自分の思うまま欲しい物を手に入れる。
欲しがらない態度が、逆に男を惹きつける。
「欲しい物」は男だったら名声とか地位になるんだろうけど、何故だか消費社会のヒロインの「欲しがる物」はブランド品、旅行や可愛いペット。
『紳士は金髪がお好き』の時代から、そういう伝統なのだ。
この伝統はいつ頃日本に上陸したのだろうか?映画『月曜日のユカ』くらいから?(よく知らないが)
それらを手に入れるためにフェラもする、セックスワークに従事する消費の女王。さながら『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーみたい。今思いついたけど。ホリーも、飼い猫を溺愛しニューヨークという消費の街で生きるために身体を売る。(明らかな性描写が無いのが、この作品のお洒落さにつながっているわけだけれども。)
彼女達は「欲しい…」っていう、まるで母乳を欲しがる乳児のように短絡的といえば短絡的で、即物的で単純な思考から行動している(内心はもっと複雑だろうが、書き手は敢えてそう描くのだ。カポーティも岡崎京子も。)
だからこそ、彼女の欲望は幼児的で童話っぽい。
そんな童話っぽい語り口調で彼女達は彩子みたいなエセ消費主義女を出し抜いていく。(出し抜こうとするつもりすらない。)そこにあるのは、赤ちゃんみたいな欲望とあまり中身のつまっていなそうな頭と(そのくせ彩子の指摘とは対照的に、ただの気まぐれでマスカルチャーよりも高尚な小説を読んで引用することもあるのが彼女たちだ。)そして男を翻弄する顔と身体である。
この幼児的欲望・衝動と熟れた身体とのアンバランスさが、中途半端なその辺の女に勝るのだ。
最終的に、唯一無二のヒーローかと読書には思われていたハルオ君にも、ユミちゃんが原因となって悲劇が起こる。
赤ちゃん的な欲と語り口(舌ったらずなマリリン・モンローの語り口と『月曜日のユカ』における加賀まりこの話し方とも被る)と熟れた身体は結局のところ大概のお話で、男と(もしかしたら男社会への)アンチテーゼへとなり得るのだ。
物を買うことで男のお財布と心を搾り取って、赤ちゃんがハイハイするようにどこかへ消えてしまう。そこには、社会的に成長した責任感や情などないのだから。
その点で岡崎京子が描いた消費社会の女王の姿は見事で、
だけど結局のところ若さを失う運命にある彼女達の破滅は目に見えている。
しかしながら、いつもその部分は描かれない。キレイに終わってしまう。それが消費の女王を描くときのルールみたいなものなのかもしれない。
前述の評論で五所氏は「風俗嬢に大富豪がいないのはなぜか?」と問題提起しているが、その答えはたぶんそこで、でも他にも何がもっと理由があるのだと思う。
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