【エッセイ】文学系院生の日常のお話
おはようございます、と
研究室の重い扉を開けると、先輩たちは「なぜ、プリキュアとか女の子が主人公の戦隊ものは男の子が主人公のそれよりも『変身シーン』が長いのか?」について真剣に議論している。
文系(文学系)院生の日常のひと場面。
私は、こういう光景が大好きだ。
「女の子、ひいては女性は身支度に時間をかける。それは、身ぎれいにする目的でもあれば、自分の楽しみのためでもある。そのワクワク感が『変身シーンに詰まってるんじゃないか?」とひとりの先輩が提示すると、
「いや、それって偏見じゃない?」と、他の先輩が言う。
ここまで、議論が進んだところで私が入ってきたことに気づき、挨拶を返してくれる。
理系の領域が、理系の大学院生が、テクノロジーや機械、あるいは快適に人間が暮らすための構造を発見し研究しているなら、(理解が乏しく、申し訳ない)文系、文学系の院生は、こういった「考え方」を創出している、と言えると思う。
文学の領域の研究、というと、ふわふわとした綿あめのような「虚構の物語」を、ああでもないこうでもないと退屈な議論を交わしている、というのが、もしかすると世間が持つイメージだろうか。
ある意味では、そうかもしれない、そう見えるかもしれない。
でも、ある意味では、それは少し違う。
批評能力を培う
私たちの研究・批評対象は確かに先人たちが作り出した虚構の詩や小説、映像作品である。(もちろん、ノンフィクションや伝記、自伝も含まれるので、この言い方では語弊があるが)
しかし、私たちはその虚構の世界を「実(じつ)」から分析する。
「実」というのは、作品が生まれた時代の歴史性や、生まれた場所の土地性、あるいはその時代・空間に流行していた理論(これは、心理学や言語学、社会学まで多岐にわたる)を駆使し、その作品の中にある描写や登場人物たちの言動や作家が用いた文体・言葉を分析していく。
それは、一つの物語・作品の中にとどまらない。
違う時代の、違う空間で生まれた複数の作品を並べて、類似点を挙がれば、その背景にある社会現象や、人間一般の現象の関連性を「実」からまた考える。
こうやって、私たちは批評の枠組みを日々学んでいくのだ。
もちろん、他にも身につくことはある。読解力も、文献を読むための語学力(それを生かし、教員免許をとる人も多い)、日々求められるコメントやプレゼンで身につく情報処理能力や思考力もそうかもしれない。
でも、最も鍛えられるもの、は「批評能力」だろう。
批評、にはさまざまある。女性の被抑圧的な立場や視点から男性優位だった社会、文学を再読するフェミニズム批評や、経済格差や階級から作品と当時の社会を再考するマルクス主義批評。(これはほんの一例なのだけど)
つまり、文学を読み、研究することとは、そのテクストを生んだその社会を分析するということに等しく、社会の中で起こり得る「考え方」、「思考のルート」を先人たちのそれに関して学び、そして新たに発明する。
文学研究とポップカルチャー批評
だからこそ、文学系大学院生は(もちろん、本業も頑張ってますよ。)アニメや漫画、漫才、落語などのポップカルチャーをいろいろな視点(社会的背景、舞台になっている土地の特徴、その時の経済や通信手段)などから意見することが好きな人が多い。
アニメ批評も、昨今では文芸誌に掲載されるようになっているし、フェミニズムの視点からアニメや映画を分析する書籍等も、最近ではかなり人口に膾炙してきていると思う。
こういった批評のあれこれは、今まで書いてきたように文学系の院生が日々行っていることと同じなのである。
テクストや映像作品を丹念に理解する➡周辺の情報、社会現象をリサーチする➡その関連性や因果を思考➡思考を言語化する。
この流れを、わたしたちは日々繰り返しているのである。
ここまでのことは、私が大学院に入学してからの約半年で思った所感なので、それ以上の深い醍醐味もきっとあるのだと思う。
実学コンプレックス
ここまでを振り返ってみて、私は近年議論が盛り上がる「文学部不要論」を否定的に見る。
そもそも、私は実学/虚学という言葉自体好きではない(虚学ってなんだよ。)し、そもそも役に立つとか立たないとかいう尺度で学問を考えることはおかしい、とは思う。
とは言いつつも、私自身、理系の男性と交際している時に、本当にこの「実学コンプレックス」を感じてしまった。生物学学系だった彼が、研究室とか、ポスター発表とか、実験…そんな言葉を使うたびに、うわっていう、なんだか複雑な気持ちがあった。
私だって、情熱をもって自分の研究に取り組んでいたつもりだった。でも、「それは、何の役に立つの?」という質問には、即答できないでいたし、そのような価値観から目をそむけていた。
大学、大学院で宇宙研究をしている中学からの親友は、その価値観について私が語ると、「でもさ、研究なんて自分がスキならいいんだよ。」と言ったけれど、それもそれで、少し悔しさを感じていた。
しかしながら、ある意味で学術の領域で、最も「なんでもありのカオス!!!」な虚構の世界を分析する文学の世界は(アメリカのシットコムや、セレブリティ、コミックを真面目に研究する人もいます。)多様な視点を持つという点、知識の幅広さと器用さ、には長けていると思う。
あるいは、周縁化されているものに焦点を当てる(クィア批評、あるいは植民地だった土地や欧米中心主義に疑問を呈するポストコロニアル批評、マルチカルチュアリズムなどは最近持ち上がりを見せている)、簡単にいうと「やさしくない社会」から「やさしい社会、寛容な社会」へ、という意識にも優れているだろう。
そのような視点は、確かにはっきりと目には見えないが、
「役に立つ/立たない」という尺度でそれを考えるならば、大いに社会の役に立つ、という以外の答えを私は出すことができないし、今なら目をそむけずに、その意義を考え、述べられると思った。