読書録:方法序説「我思う、故に我有り」について

こんにちは。

デカルトの方法序説を第四部第二段落あたりまで読んだので、そのうち有名なフレーズである「我思う、ゆえに我有り」について書かれていることなどをまとめておきたいと思います。

初めての読書録なので、実際のまとめに入る前に、私の読書録の方向性や雰囲気について述べておきます:

・気軽に書いています(気が重いとまとめができなくなっていくので...)

・途中までしか読んでなくてもこまめに気づいたことをメモする感じで書きます(私は読むのが遅くて、一冊読み通すのにすごい時間がかかってしまうから、それでは続かないので...)

他の読書録が増えてきて、方向性や雰囲気に関する注意書きに加えるべきものができた場合は、上に加えていきます。

また、他の読書録や、方向性や雰囲気に関する注意書きなどが増えてきたら、上の部分は別の記事にしようかなと思います(そこまで続けばいいですが...)。



〜〜〜〜以下、方法序説の「我思う、故に我有り」に関するまとめ〜〜〜〜


読んだもの:デカルト 著、谷川 多佳子 訳「方法序説」


「我思う、故に我有り」という日本語訳について:
本当は、「私は考える。ゆえに私は存在する」という感じで、「思う」というよりは「考える」という感じ(ロジックを読めばそのことが理解できる)。
ここでの「私」は、自分全体(体などの肉体的なものを含めた自分全体)ではなく、「魂」のような、精神的なものであると思われる(第四部第二段落8〜13行目)。


「我思う、故に我有り」と書いてある場所:
第四部の初めの段落の最後の方(20〜21行目)
(第四部は、デカルトにとっての形而上学の基礎を論じた部分)


「我思う、故に我有り」という主張についてのデカルトの認識:
ほんの少しでも疑いを挟む余地があるものは誤りとする、という前提に立ったときの、全く疑いを挟む余地のないもの(デカルト的には、「真」な主張、真理)
(場所:第四部、最初の段落、9〜11行目)


「我思う、故に我有り」に至るロジック:
様々なものに疑いを挟んで、すべてを偽と考えようとしている間も、それを考えている主体として私(の精神、思考の主体)が存在している。これから、私(の精神、思考の主体)の存在は疑い得ない。(第四部第一段落19〜20行目、第二段落1〜4行目)

論理の飛躍がある気がするので補足:より一般に、ある行為(K)について、(K)が行われるための前提として、(K)を行う主体の存在が認められなければならない(動詞には主語が必要)(行為(K)が行われる⇒(K)を行う主体が存在する)。
ここで行為(K)として「思考する」という行為をとってくると「なんらかの思考を行うときには、その思考を行う主体が存在しなければならない」ということが帰結する。
ここで「なんらかの思考」として「すべてを偽であると考える」という思考をとってくると、「すべてを偽であると考える」という思考を行う主体が存在することが帰結する(思考の主体の存在を偽であると仮定しても、その仮定(ある種の思考)をしている主体の存在が帰結し、「思考の主体の存在が偽であると仮定すると、思考の主体が存在する」という矛盾を引き起こされて、「思考の主体の存在」の真理性がわかる→「我思う、ゆえに我あり」)。

実際、デカルトは第四部第二段落5〜6行目で
「逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由もなくなる」
と言っていて、これは「行為(K)が行われていなければ、(K)を行う主体の存在についていかなることも帰結されない」という意味で、上の補足と適合している(上の補足では、「行為(K)が行われる⇒(K)を行う主体が存在する」ということしか主張していないので、(K)が行われなかった場合について何も言ってない)。

疑問:同一の身体に宿る思考の主体の同一性はどのように確認されるのか?つまりこのロジックでは、”自分”が考えるという場面においては、異なる種類の思考に対しても、それらの思考の主体が同一であることが前提とされている。
・「すべてを偽であると考え」ている主体(A)と、
・「すべてを偽であると考えている主体(A)の存在を偽であると仮定し」ている主体(B)があって、
(A)と(B)の存在が真であることが今わかっていること。
(A)の存在が偽であると仮定することからは(B)の存在が帰結されるが、これから矛盾を引き出すためには(A)と(B)が同一でなければならない。
この二つの「」内の行為は異なる行為であるから、異なる行為に対してその行為者・主体の同一性が前提とされている)が、それはどのようにして確認できるのか?
自分の身体と自分の思考を分離して考える(第四部第二段落8〜13行目)なら、行為者の(身体的な)同一性が思考の主体の同一性を帰結することはできないのではないか?
他にもいろいろと疑問をぶつけることはできると思う。
(結局、「普遍的懐疑から始めることなどできない」というところに収束することになると思うから、あまり真剣に考えてない)


本に対する感想:基本的にはデカルトの過ごした人生や学んできた学問についてデカルト自身がどう思ったかなどの感想と共に思想が語られていくスタイルなので、「体系化された哲学の本」を読むという姿勢ではなく、読み物を読むという姿勢で読むのが良いかなと思った。

デカルトが主張する「学ぶときに気をつけるべきこと」や「問題を解くときに気をつけるべきこと」(これらは第二部や第三部に書かれている)は自分がこれから何かを学んだり問題に立ち向かったりする上で大変参考になる「方法」だなと思った(方法序説でデカルトが言いたかったのはこの部分?)。

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