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<書評>『フランス・ルネサンスの人々』

『フランス・ルネサンスの人々』 渡辺一夫著 1979年白水社

『フランス・ルネサンスの人々』

 フランソワ・ラブレーの大著『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』を翻訳した、日本におけるフランス中世文化の大家である渡辺一夫が、ラブレーを翻訳する過程で生み出された業績をまとめた評論集。特にユマニスム(ヒューマニズム)という概念に関する論考が中心となっている。

 私は既に、この『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』全5巻(岩波文庫)を読了したが、別途<書評>に書くように、この壮大な中世フランスの知の巨人によって、中世ヨーロッパ文化を集成した作品については、それだけを研究する専門の学会がフランスにあるように、フランス人自身にとっても容易に解釈できない文献となっている。そのため、外国語への翻訳は、ヨーロッパ諸語ですら多大な困難に面しているが、それを日本語に翻訳することは、不可能に近いことであった。それを、渡辺は生涯をかけて翻訳したが、その作業は同時に中世フランス(ヨーロッパ)文化全般を調査・研究することにつながった。そして、進行中の翻訳作業から生じた研究成果が、数々の論考として残された。

 一方、ラブレーの翻訳が戦前・戦中・戦後に渡って行われた背景から、副産物として生まれた幾多の論考は、当時の世界情勢―つまり第二次世界大戦―に強く影響されている。それは同時に、ラブレーが直面した陰惨なフランス国内の宗教戦争に比するものになった一方、また、ラブレーがユマニストとして平和を希求する手段として物語を作成したのと同様に、渡辺も混迷する日本に対して、ユマニストという穏便な手段で異議申し立てをしてきた記録となった。そうした渡辺の時代に対する意識が、本書のいたるところに表明されている。もちろん、直接に強い言葉で批判するのではなく、論考で取り上げた中世フランス人の評伝を通してというラブレー流の巧妙な方法で。

 そうした渡辺の時代に対する異議申し立てを中心に、私が関心を持った箇所を引用して紹介したい。なお、ページ数の次の( )内は、該当する章の題名であり、また著者が紹介している歴史上の人物名等である。また、一部のものに<個人的見解>として、私の意見・感想等を付記した。

P.18(序章)
 ユマニスム(ヒューマニズム)という字は、単に博愛的とか人道的とかいう意味にのみ用いられるよりも、人間が自分の作ったもの、現に自分の使っているものの機械や奴隷にならぬように、歪んだものを恒常な姿に戻すために、常に自由検討の精神を働かせて、根本の精神をたずね続けることにほかならないのではないかと考えております。

P.73(ある占星師の話―ミッシェル・ド・ノトルダム⦅ノストラダムス⦆の場合―)
 ゲーテの『ファウスト』第一部の初めの方に、ファウストが、深夜にのべる有名な独語がありますが、そのなかに、次のような句が見いだされます。

 さあ、逃げ出さないか、広い世界へ。
 それには、ノストラダムスの自筆に依る
 この一巻の神秘の書があれば、
 道連れとしては十分ではないか。(418―421行 相良守峰訳)

・・・ノストラダムスというのは、申すまでもなく、ノトルダムをラテン語式に呼んだもので、当時の学者たちの習慣にすぎません。このほか、ノストラ・ドンナ Nostra-Donna というイタリア臭い名で呼ばれることもあるようですが、これは、ミシェルの祖父ピエールが、イタリアからフランスへ帰化した人だったためで、初めノストラ・ドンナと名乗っていたのがそのまま残った結果だと言われています。

<個人的見解>
 20世紀末の日本で大流行した『ノストラダムスの大予言』というのがあった。当時は猫も杓子も「1999年に日本は滅ぶ」として、マスコミでも毎日ネタにされているほどだった。なぜ流行したかという理由については、世界中に蔓延した「20世紀末」という終末思想が影響していたと思うが、予言者であるノストラダム自身についての紹介などは一切なかった。むしろ「予言者として謎が多い人物であった」式に煽っていたと記憶している。

 しかし、この予言者が日本で大流行する以前に渡辺は、イタリアから帰化したフランス人として、その名前の来歴を含めて丁寧に紹介している。こうした立派な論考があるのにも関わらず、いたずらに神秘的なイメージで売りまくったマスコミのやり口は、渡辺が危惧した戦前・戦中・戦後の日本の姿を良く象徴していたと思う。そして、そうしたやり口は、未だに変わっていないばかりか、より酷くなり、さらにSNSなどの出現によりマスコミ以外の一般人まで行っているというのが、現状ではないか。

P.98(ある教祖の話⦅A⦆―ジャン・カルヴァンの場合―)
 ・・・獲得され精錬された原子力が、何のために用いられるべきかを忘れたら、いかなるすぐれた技術家も科学者も、<針の先へ天使が何人乗れるか>ということを議論しただけにとどまる中世の愚劣な神学者と何ら選ぶところはなくなります。そして、このような学究に対しては、Quid hack Christum(humanitatem)?(それはキリスト[人間たること]と何の関係があるのか?)と問われるのが当然になります。もっとも、こうした問いを発する少数の人々がいても、これで愕然とする権力者や狂信者は、ほとんどいないのが実情のようです。しかし、こうした問いを、誰かが常に発していなければならず、これがユマニスト(ヒューマニスト・人文学者)の使命なのではないかと思っております。

P.138(ある教祖の話⦅A⦆―ジャン・カルヴァンの場合―)
 歴史は、ただユマニスム的批判のみによってはいっこうに進行せず、むしろ狂信に近い信念と暴力をも伴う行動とによってのみ局面が打開されることがあったのも確かでしょう。しかし、こうした歴史の進行や局面の打開――それは戦乱や革命や暴動という形で現れるのでしょうが――こうしたものに伴う犠牲は、極力少なくせねばならず、その方面への人間の努力は、声のある限り説得し続けるユマニスム以外に何もないかもしれません。

 その上、我々は、断固として行動して一挙に解決するほうが、隠忍して時間をかけた上の解決に達するよりもはるかに容易であり、戦乱中で右往左往するほうが、よこしまなものを一つ一つつぶしながら平和を維持することよりも、これまた、はるかに楽だと思いやすい以上、狂信や暴力による歴史の進行と打開とは、人間としてむしろ楽であり、ユマニスムによる地味な前進打開は、それが人間全体の深い変革を求めているだけに、実に苦しい仕事になります。しかし、この苦しい仕事に従事する人間がいなくなったとき、人間社会は、狂人に運転されたブルドーザーのように走りまわり破壊の限りを尽くし、そしてみずからをも破壊することになるに違いありません。

<個人的見解>
 この時の渡辺の脳裏には、「ブルドーザーを運転する狂人」のイメージとして、国や政府組織を思い描いていたと思う。実際、政治を行い、また歴史を動かしているのは、これらの為政者であるし、現在もそうだろう。しかし、ここに20世紀以降新たな「為政者」が加わっている。それは「大衆」である。今や為政者は圧倒的な力を持つ大衆のご機嫌取りをしなければ、政治ができなくなっている。そして大衆はSNSという新たな武器を手に入れて、その狂信的なものを多く含む一方的な主張を為政者に強要し、その結果「大衆」が「ブルドーザーの運転手」になっているように見える。「ブルドーザーの運転手」には、適切な免許が必要ではないか。

P.200(ある神学者の話⦅A⦆―ミシェル・セルヴェの場合―)
 現在、人々は、宗教問題で戦争を起こすことはしない代わりに、経済問題・思想問題で戦争を起こしかねません。しかし、もしユマニスムが今なお生き続けているとするならば、必ずいつか、人々は、こうした諸問題のために争うことも愚劣だと観ずることでしょう。経済も政治も思想も、人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義を、必ず、人々は悟ることでしょう。ユマニスムは無力のように見えてよいのです。ただ、我々が、この無力なユマニスムが行い続ける批判を常に受け入れ、この無力なユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をしたほうが、殺し合って、力の強い者だけが生き残るというジャングルの掟を守ろうとするよりも、はるかにむつかしいにしても、はるかにとくだということだけは確かなように思います。

<個人的見解>
 ユマニスト渡辺一夫の痛切な願いがここに表現されている。勇ましいもの、雄弁なもの、目立つもの、見た目が良いもの、立ち回りがうまいもの、権力があるもの、学歴が高いもの、資産が多いもの、知名度が高いもの、こういった英雄的イメージのものたちが、現在の世界で、日本で、大衆から強力な支持を得ている。しかし、渡辺の主張するようなユマニストたちは、無力であり、また力が弱い。そのため、大衆から支持を受けることは非常に少ない。だからこそ、非力なユマニストたちの意見は重要である。「王様(〇〇さん)は裸だ!」という声が、いつでもどこでも聞こえる世の中になりたい。そして、この世に英雄は要らないのだ。

<私がアマゾンで、キンドル及び紙バージョンで販売している、これまで訪れた海外都市の印象をまとめたものです。宜しくお願いします。>


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