<書評>『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 Die Protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus』マックス・ウェーバー Max Webber著 梶山力・大塚久雄訳 岩波文庫 1955年 原著は1920年(論文は1904-05年)
マックス・ウェーバーの、『古代ユダヤ教』と並ぶ著名かつ歴史的な著書である。その内容は、近代資本主義の発展には、プロテスタンティズムの考え方が大きく寄与していたと述べている。ところで、二巻に分かれている本書は、二人の訳者による共訳となっているが、上巻は梶山力が翻訳したものを大塚久雄が改訳しており、漢字が旧字体である他、言い回しなどが旧仮名遣いに近いものとなっている。一方、下巻の漢字は新字体であり、言い回しも現在のものに近いため、新たに翻訳したものと思われる。
これは、二人の訳者が先輩・後輩の間柄であるため、後輩が先輩の翻訳を勝手に改めることを躊躇し、かつ尊重した結果であったことが、巻末の解説から伺われる。これは学究者の師弟関係としては美しい話かもしれないが、一般の読者としては単純に読み辛いものとなっているので、(最新版は知らないが)新字体に統一した上で、より現代文に近いものに改めた方が良いと思う。
本書に関する感想を述べる前に、本書の概要を紹介することへつながる引用を以下にしているが、かなりの分量となってしまった。また、本書の形態が、本文以外の著者による原註が半分近くを占めるという異例のものになっているため、原註からの引用については、ページ数の次に( )で記入した。さらに、一部のものには私の感想あるいは理解を<参考>として付記した。
<上巻から>
P.68
思考の集中能力と、「労働を義務とする」この上なくひたむきな態度、しかもこれに結びついてこの場合とくにしばしば見出されるのは、賃金とその額を勘定する厳密な経済的合理主義、及び労働能力のいちじるしい向上をもたらす冷静な克己心と節制である。労働を自己目的、すなわり「使命」(たる「職業」)と考うるべきだという、あの資本主義の要求にまさしく合致するところの考え方は、このような場合もっとも受け容れられやすく、伝統的習慣を克服する現実的可能性は宗教的教育の結果としてもっとも大きくなるのである。
P.95
・・・カトリック教徒が優勢な諸民族にも、また古典古代の場合にも、われわれが「職業」(生活上の地位、一定の労働領域という意味で)となづけているものに対して類似の語調をもつ表現を見出しえないが、これに反してプロテスタントの優勢な諸民族の場合にはかならずそれがあるということである。さらに知りうるのは、その場合何らか国語の民族的特性、たとえば「ゲルマン民族精神」の現れといったようものが関与しているのではなく、むしろこの語の現在の意味は聖書の翻訳に由来しているのであり、それも原文の精神ではなく翻訳者の精神に由来しているということである。
P.116(原註6から)
・・・パウロの「働かざるものは食うべからず」という命題を解釈して、自然法からみて欠くことのできない労働が課せられているのは人類全体に対してであって、個々人に対してではないと考えねばならなかった。農民のopera servilla(農奴の労働)を最下位とし、それから上へ順次に段階を設けるような労働の評価の仕方は、物質的理由からして居住地たる都市に拘束されていた托鉢僧団の独自な性格に関連するものに他ならなかった。これに対して、農民の子ルッターやドイツ神秘家たちはすべての職業を相互に同じ価値をもつものと見て、社会の身分編成が神の意志であることを強調したのであって、そうした段階や評価は彼らの思いも及ばぬものであった。
P.124
・・・人間生活の個々の過程のうちにも神の摂理を強調する彼(注:ルッター)の態度は、「摂理」の思想に相応する伝統主義的色彩をますますつよく帯びるに至った。すなわち、各人はひとたび神より与えられた職業と身分のうちに原則として止まるべきであり、各人の地上における努力はこの与えられた生活上の地位の枠を越えてはならないのである。こうして彼(注:ルッター)の経済的伝統主義は、最初はパウロ的な無関心的態度の結果であったのに、のちには、いよいよその度を加えてきた摂理の信仰に基づくものとなり、神への無条件的服従と所与の環境への無条件的適応を同一視するに至った。
<下巻から>
P.36
・・・カルヴァン派においては、いまや、その倫理体系の特徴的な部分となるにいたったのである。「隣人愛」は、――被造物でなく神の栄光への奉仕でなければならないから――何よりもまずlex naturae(自然法)によってあたえられた職業の任務を履行することのうちに現れるのであり、しかもその際、それは特有な事物的・非人間的な性格を、つまり、われわれを取り巻く社会的秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を、帯びるようになる。
P.38-39
・・・神は現世の構成、だからまた社会的秩序の中において、事物の上で合目的的なものを、必ず自らの栄化の手段として欲したもう、それは被造物(注:人間)自体のためではなしに、被造物界の秩序を自らの意志にしたがわせんがためである、との思想はカルヴァン派信徒たちに霊感をあたえた。だから、(注:天国へ行くための)選びの教説によって解き放たれた聖徒たちの行為欲は、ひたすら現世の合理化への努力となってほとばしり出た。
P.50
・・・あの資本主義の英雄時代の鋼鉄のようなピュウリタン商人のうちに、また個々の標本としては今日もなお見出されるところのあの自己確信に満ちた「聖徒」が育成されることになる。いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最も優れた方法として、絶えまない職業労働がきびしく教えこまれたということである。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ、宗教上の疑惑は追放されて救われているとの確信が与えられる、というのである。
P.55
すなわち、すぐれた宗教家が自己の救われていることを確信しうるのは、自分が神の力の容器と感ずるか、或いはその道具として感ずるか、その何れかなのである。前者のばあいには彼の宗教生活は神秘的な感情の培養に傾き、後者のばあいには禁欲的な行為に傾く。
P.56
ところで、実践上からみると、このこと(注:善行)は結局、神は自ら助ける者を助けるということを意味する。つまり、往々いわれるように、カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを――正確には救いの確信を、といわねばなるまい――「造り出す」のであり、しかもそれはカトリックのように個々の功績を徐々に積みあげることによってではありえず、どんな瞬間に選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえにたつ組織的な自己審査によって造り出すのである。
P.70
(注:カルヴァン派の)「聖徒」たちの生活はひたすら救いという超越的な目標に向けられたのであるが、しかし、まさしくそのために、現世の生活が地上に神の栄光を増すという観点によってひたすら支配され、徹底的に合理化されることとなった。
P.104―195
この寛容という思想について、この機会に少しく附言しておきたい。歴史上西洋では、人文主義的・啓蒙的な無関心をここでは除外すれば――このものだけでは決して大きい影響をもったことはない――この思想は次の三つの主要源泉から生まれでた。(一)純粋に政治的な国家理由から(原型、ウィレム・フォン・オラーニェ。)――(二)重商主義から(とくに顕著な例としては、さまざまな教派に属する人々をも経済的進歩の重要な担い手として受け入れたアムステルダムその他の多数の都市、領主、君主などのばあい。)――(三)カルヴァン派的宗教意識のうちの急進的な流派から。(中略)カルヴァンは、神に捨てられた者をも教会の聖潔な制度の下に服させることが、神の栄光にふさわしい唯一のことと考えていた。
<参考>
「寛容」という概念は、極めて宗教的な概念――つまり「赦し」・「恩寵」といったものに近いイメージを持っていたが、このブーバーの説明からは、宗教よりも政治的かつ経済的理由が主体であったとされている。また、宗教的な理由を探し出せば、カルヴァン派による非キリスト教徒を(カルヴァン派の)キリスト教徒に転向させる意味であったとされている。そこには、人と人との関係における親愛的なニュアンスは感じられず、功利的かつ現実的な行為とされている。しかし、現在における「寛容」という言葉は、相手に対する「赦し」・「恩寵」の意味で使用されている。その背景には、政治的経済的あるいは宗教的理由が持っていた力が弱体化した結果、これに反比例するように、言葉自体が本来持っていた力・イメージが浮上したからではないか。
P.106―107
宗教的寛容は決して近代あるいは西ヨーロッパに独自なものではない。インド、中国、ヘレニズム時代の西アジアの巨大諸国家、ローマ帝国、イスラムの諸国家では、寛容は、ただ国家理由による制限をうけたのみで(こうした制限は今日でも存在する!)きわめて広範囲におこなわれていた。これに対して、十六、七世紀の世界ではそれに比肩しうるようなところは何処にもなく、とくに、政治経済的興隆期のホランド(注:オランダ)やゼーランド(注:同じくオランダ)や、ピュウリタンのイングランド並びにニュー・イングランド(注:アメリア大陸の植民地区)のようなピュウリタニズムの支配していた地方では、寛容はおこなわれることはむしろ最も少なかったのである。(中略)したがって寛容は、それ自体としては、明らかに資本主義となんらの関係もないのである。
P.125(原註14から)
プロテスタント的禁欲の立場にとって決定的な観点は、・・・キリスト者がその信仰の果実によって認識されるように、神とその聖意の認識も彼の聖業の認識によってのみ進めることができる、というにあった。・・・ピュウリタン、再洗礼派、敬虔派の信徒たちが特愛した学科は物理学であり、それについでは、同じ方法的操作を用いる諸多の数学的=自然科学的諸学科であった。つまり、この世界の「意味」は、神の啓示の断片的な性格のために――カルヴァン派的思想――概念的思索によってはどうしても捉ええないけれども、自然における神の法則の経験的把捉によってその知識にまで到達しうる、と彼らは信じたのであった。
P.163
宗教的要求にもとづく、「自然の」ままの生活とは異なった、(注:カルヴァン派)聖徒たちの特別の生活は――これが決定的な点なのだが――もはや世俗の外の修道院ではなく、世俗とその秩序のただなかにおいて行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部でおこなわれる生活の合理化こそが禁欲的プロテスタンティズムの職業観念の帰結だったのである。
P.169
明白に啓示された神の意志によれば、その栄光を増すために役立つものは、怠惰や享楽ではなくて、行為のみである。したがって時間の浪費がなすなかでも第一の、原理的にもっとも重い罪なのである。時間の損失は、交際や「無駄な饒舌」や奢侈によるものばかりでなく、健康に必要な――六時間かせいぜい八時間――以上の睡眠によるものでも、道徳上絶対に排斥しなければならない。
<参考>
「タイムイズマネー(時は金なり)」というのは、実に資本主義的な諺だと思ったが、その出発点は、ピュウリタンによる、時間の損失は道徳的に排斥しなければならない、という考えがあったことを知った。そして、この「金なり」とは「神の意志なり」から翻訳されたものなのだろう。
P.169-170
・・・黙想は職業における神の意志の積極的な実行よりも、神に喜ばれることが少ない・・・。それのみでなく、黙想のためには日曜日がある。・・・職業に怠惰な人々にかぎって、神のために働く機会はあるのに、時間がないなどというのである。
<参考>
これは、怠け者に対する現在でも通用する叱責として有効だと思う。勉強でも仕事でも、サボってばかりいる人の典型的な言い訳は、まさに「時間がない」である。そして、時間とは、あるとかないとかの受け身で対応するものではなくて、自ら作り出すものである。
P.175(原註11から)
・・・時間を区分して生活した人間が修道士であったということと、そして教会の鐘ははじめ彼らが時間を区分するために役立てられたのだった・・・。
<参考>
日本では、仏寺の鐘が庶民に時間を知らせていたが、これも庶民のために突いているのではなく、仏寺の僧侶(修行僧)のために突いていた。そういう観点では、日本における勤労意識には仏教概念がかなり影響していると思う。「真面目に働いていれば、ご利益がきっとある」等。
P.177
東洋はもちろん、ほとんど全世界のあらゆる禁欲僧の規律といちじるしく異なって、西洋の教会では、労働は古来そうした禁欲の手段として尊重されてきた。それは、とりわけ、ピュウリタニズムがunclean life(汚れた生活)という観念のもとに一括した誘惑の一切に対する独自の予防措置であり――しかも、その役割は決して小さいものではなかった。
<参考>
例えば、禅寺では、禁欲のために、坐禅・掃除・日々の家事労働を行っている。それが、ピュウリタンにとっては労働となっていたことは、似ているようでどこか違うように思う。特に坐禅は、前述のようにピュウリタンにとっては「時間の浪費」となるため、禁欲手段とは見られていない。
P.188
富が危険視されるのは、ただ怠惰な休息や罪の快楽への誘惑としてのみであるし、富の追及がそうであるのも、他日煩いなく安逸に暮らすためになされるばあいだけである。むしろ、職業義務の遂行は道徳上許されるに止まらず、まさに命令されているのである。
<参考>
今の日本で富の蓄積は、一部の資本家にとっては社会貢献の器材となっているが、大半の資本家(特に成金たち)にとっては、まさに怠惰な休息や罪の快楽を得たいがために励んでいると思う。それはまさに、江戸時代に吉原で豪遊した紀伊国屋文左衛門そのものである。
P.207
・・・あのBook of Sports(遊戯篇)をめぐる闘争であるが、これはジェイムズ一世とチャールズ一世がピュウリタニズム圧迫というあからさまな目的のために法律化し、ことにチャールズ一世がピュウリタニズムのすべての教会の高壇から読み聴かすよう命じたものである。・・・彼ら(ピュウリタン)を激昂させたのは、日曜日の安息が乱されるというだけではなく、むしろ聖徒を規律ある生活から逸脱させようとすることであった。
<参考>
英国で近代スポーツが発祥したことは、誰もが知っていることだが、その背景に国王によるピュウリタン圧迫という政治的理由があったことがわかる。そして、スポーツは「ジェントルマン育成のためのエリート教育」というのは、後付けのお題目でしかなく、実態は「日曜日の安息を乱す、規律の無い生活態度」であったのだ。この観点からは、スポーツを文化的に高度なものとして神聖視することは避けるべきであり、何よりも娯楽・享楽・時間の浪費という観点から見るべきだと思う。もちろん、ここで言うところの娯楽・享楽・時間の浪費という各単語は、ポジティブな意味で使用している。・・・したがって、(私の愛好する)ラグビーは、勝負よりもエンターテイメント性を追求するべきだと、私は考えている。
P.219
委託された財産に対して義務を負っているとの思想は、人間をむしろ管理する僕、あるいはまさしく「営利機械」として財産に仕える者となしつつ、われわれの生活の上に冷ややかな圧力をもってのしかかっている。財産が大きければ大きいほど――もし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるなら――神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しようとする責任感もますます重さを加えるのである。・・・それは禁欲的プロテスタンティズムにおいて、はじめて、自己の一貫した倫理的基礎を発見したのであった。それの資本主義の発展に対してもつ意味はきわめて明白である。
P.220(原註2から)
・・・開放的で教養のあるピュウリタン個人の理想もまったく相似的で、一、時間の使用、二、「虚飾」と道楽のための支出、この二つのことがらに関しては、ひじょうにつましかった・・・。
<参考>
道楽のための支出については、私は認めても良いと思うが、時間の浪費と虚飾のための支出は、ピュウリタン以上につつましくすべきだと思う。特に虚飾という言葉は、私の最も嫌う言葉であり、行為である。「虎の威を借る狐」ほど、哀しいものはいないのだ。
P.222
プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、無頓着な所有の享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみでなく、これを(上述した意味で)直接神の意志にそうものと考えることによって、その桎梏を破砕してしまった。
P.225
・・・消費の圧殺とこうした営利の解放とを結びつけてみるならば、その外面的結果はおのずから明らかであろう。すなわち、禁欲的節約強制による資本形成がそれである。利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの、投下資本としての、生産的利用を促さずにはいなかった。
P.231
ピュウリタニズムの人生観が力を及ぼしえたかぎり、それは、いかなるばあいにも、市民的な、経済的に合理的な生活態度への傾向を促進する――これが単なる資本形成よりもはるかに重要であるのはもちろんである―ーものとなった。
P.236-237
市民的企業家は形式的な正しさの制限をまもり、道徳的生活に欠点もなく、財産の使用にあたって他人に迷惑をかけることさえしないなら、神の恩恵を十分にうけ、見ゆべき形でその祝福をあたえられているとの意識をもちながら、営利に従事することができ、またそうすべきであったのである。そればかりでなく宗教的禁欲の力はまじめで良心的で、すぐれた労働能力をもち、神のよろこびたまう生活目的としての労働に精励するような労働者をも、彼の掌中にあたえたのである。
P.241
営利を「使命としての職業」とみなすことが近代の企業家の特徴となったのと同様に、労働を「使命としての職業」と考えることが近代の労働者の特徴となった。
P.245
禁欲は僧房から職業生活のただ中へ移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織の、あの強力な世界秩序を作り上げるのに力を添えることになった。が、この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接に経済的営利にたずさわる人々のみでなく――の生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えるつきるまで、それを決定するであろう。
<参考>
ウェーバーは、プロテスタンティズムの禁欲精神が、近代資本主義の発達を促進し、その結果、人々の経済及び生活は著しく発展したが、その代償として、資本主義的禁欲に縛られた個人の心身が酷く疎外されていくことを、ここに予言している。つまり、二十世紀初頭に、ウェーバーはチャップリンの『モダンタイムス』の世界を予言していた。
そして、二十一世紀の現在は、『モダンタイムス』の世界から少しずつ改善していったようにも見えるが、問題の解決は簡単ではない。未だ、「化石燃料が燃え尽きていない」現在では、プロテスタンティズム的禁欲に縛り付けられた個人は、そこから抜け出せないままでいる。
しかし、こうした「縛め」を抜け出すためには、プロテスタントが禁欲の対象とした「浪費」や「享楽」が有効なものになるのだろうか。またこれらは、個人にとって実行しやすいものではあるが、その危険性も大きい。「浪費」も「享楽」も、一旦たがを外すと際限なく続いてしまい、最後には破局を迎える道である。そして、世界の現実を見れば、この危険性の罠にはまった事例が連日ニュースを賑わせている。禁欲も、浪費及び享楽も、そのいずれかだけに専念しては、人生の正解にはならない。・・・人の心は難しく、また多くの人が集まった社会の在り方は、それ以上に難しい。
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