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【日本一周 北関東編15】 心のオアシスとしての現代アート


・メンバー

明石、尾道、釧路、宮島

・現代アート論考  筆者:尾道


 現代アートを見て何になるの?何が分かるの?という声をよく聞く。


 2021年に入ってから、どういう風の吹き回しか現代アート沼に嵌っている私であるが、その答えは未だハッキリとは出ていない。ただ原美術館ARCの展示を見て、ふと思ったのは、現代アートは合理性や生産性に疲弊した現代人の心のオアシスになるのではないかということだ。


 現代アートが他の芸術分野と決定的に異なるのは、発想力次第で簡素なオブジェクトがアートに昇華される点にある。


髭面明石と背後霊尾道


 例えば、屋外に展示されていたアンディウォーホルの『キャンベルズトマトスープ』は、材料と機械さえ揃えれば誰でも簡単にマネできてしまう作品ではあるが、本来小さくて当たり前のトマト缶を巨大化してみせたという斬新な発想に、到底真似しえない価値が置かれている。


 これは、精緻な筆遣いが要求され模倣こそ難しいが、平気で静物なんかを描く絵画領域とは対照的な点である。


 このように、現代アートは斬新な発想力を作品として具現化した結果であり、その点で作品はあくまで作者の内面を映し出す独自の媒介物ということになる。


 それゆえに現代アートは綿密なコンセプトに裏打ちされていることが必須条件であり、それを読み解くことに鑑賞の面白さは眠っている。



 とはいえ、作品の中に作者なりの具現法で埋め込まれたコンセプトを明らかにするのは至難であることが大抵であり、読解を進める体力が尽きた人から順に現代アートアレルギーに罹患するのである。


 ここまでを振り返ると、現代アートは知的好奇心と剛健な読解力に溢れた者だけが楽しめる、閉塞的な分野に思えてしまうが、断じてそんなことはない。コンセプトが分からない人には、分からない人なりの楽しみ方があると原美術館ARCで気づいたのだ。


 合理性や生産性がむやみに叫ばれるようになった現代、我々はそこから解放された領域に触れることで精神の平安を保つことができる。



 よくZ世代はモノより経験を重視すると聞くが、これも似たような話で、無二の何かと触れ合うことが、周りとの競争に疲弊した現代人のアイデンティティを慰めてくれる蜘蛛の糸になるのだ。


 身近な就活を例にとってみても、希望の会社に入るには、やれガクチカだの資格だのと、合理性と生産性の凝縮物に足を突っ込まなればならない。


 そんななか、何を表現しているのか知りたくても一筋縄では教えてくれない現代アートは、すぐに行動の理由を求めてしまう癖を拗らせた人間には、うってつけの心のオアシスなのだ。



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