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【日本一周 北関東編14】 美術館で感動する必要はない?


・メンバー

明石、尾道、釧路、宮島

・実用のための芸術論論  筆者:明石


 今から現代アート作品を専門に展示している原美術館ARCについての記事を書くのだが、大学で美術史を専攻している反面、美術館のレポを描くのは少し億劫である。


 というのも、ひとつに美術館には何かしらに感動しなければならないという圧力がある。この先入観は、大学での講義を通して作品に興味を持つという姿勢は大切であるものの、無理に感動する必要はないという考えに順応したので解放されつつある。


《TIME GATE SIDE CORE @水の波紋展2021にて


 しかし、感動しないなら感動しないなりの見解を提示しなければならないのでは?という強迫観念もある。でも、作品ってそこまで不自由なものなのだろうか。


 そもそも感動とは、芸術家が作品を作るときのモチベーションやコンセプトに共鳴したり、制作の熱量に感電したりして引き起こされるものだ。


 つまり、生きていて合う人合わない人がいるように、芸術家にも合う合わないがある。合わない芸術家の作品には感動しなくて当然なのだ。


《森の掟》 岡本太郎 1950


 とはいえ、一目見ただけで感動するような作品なんて存在するのだろうか。運命の赤い糸で約束されたように、根源的な感動を呼び起こす作品。


 このような作品にはそうそう出会えるものではない。一生かかっても出会えない人だっているはずだ。それもそのはず、感動する作品に出会うためには、準備が必要だからだ(という気がする)。


《東都名所・日本橋雪中》 歌川広重 19世紀


 その準備とは、たくさんの展覧会に足を運ぶことだ。そして、ただ作品を見るだけで終わらせず、この作品は「この表現が面白い」「このとりあわせが新しい」といった細やかな鑑賞を通して、ディテールを読み取る目を養う(自分の美的価値観を形成する作業と考えることもできる)。


《黄昏、ヴェネツィア》 クロード・モネ 1908


 すると、新しい作品に触れたとき、芸術家の意図や着眼点がわかるようになり、高いシンクロ率で心を震えさせる「感動する作品」に出会うことができる。


 さあ、これを踏まえて作品のディテールを読み取る記事を書かなければ(なんだか美術館レポのハードルを下げようとして、自分で自分の首を絞めた感じがするなぁ)。


*この記事に用いた写真の作品は、原美術館ARCに所蔵されているものではありません。


・散歩がてらのアート鑑賞  筆者:明石


 お腹も満たされ、少々まどろみを感じながら原美術館ARCの原っぱに降り立った。



 遠くには地下シェルターへの入り口みたいな半球状の金属製の建物が見える。街の喧騒が届かない野山にあるため、核戦争の終結から3世紀ほど経って緑に侵略された遺構みたいだ。


瞑想的空間


 建物の中に入ってみる。のっぺりとした白壁には太陽光のプリズムが幾筋も走っていて、異空間にシフトした気分になった。こういうまるごと空間を創造するような作品が好みだな、ということを気づかされた。


 他に屋外の作品で印象に残ったのは、中庭に展示された「日本列島のベンチ」である。日本巡行を行っている身としては、今まで訪れてきた四国、東北、九州などを物理的に概観できるとテンションが上がる。


はしゃぐ尾道


 Google Mapsでは幾度となく目にしてきたカタチではあるが、立体作品となると山陽と四国、島原と熊本といった海路の距離感を、思い出を反芻しながら手で辿ることできるため、感慨深さが段違いなのだ。


 やっぱり視覚のみならず、座ったり、海岸線を手でなぞったりと触覚でも鑑賞できる作品は思い出に残りやすくなるのだな。


 屋内には、奈良美智や草間彌生、宮島達夫といった日本の現代アーティストの大家の作品が豊富に展示してあった(しかし撮影禁止)。


代わりに、2020の冬のSTARS展での奈良美智の作品を


 その中で最も印象に残っているのは、ナムジュンパイクの「キャンドルテレビ」だ。フォルムの可愛らしい旧式のブラウン管テレビの内部がくり抜かれ、空っぽの筐体の真ん中に一本の蝋燭が炎を揺らしている。


 情報の洪水の水源となるテレビが優しい灯を投げかけるさまは、どこか祭壇のようにも見える。逆説的な美しさに心を奪われた。


 大見得切ってはじめた割に簡素な文章になってしまったが、そこはご愛嬌ということで。


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