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弓削保
2016年2月12日 14:48
数日前から降りはじめた冷たい雨が視界を煙らせる中、好んで外に出る人間は殆どいない。 彼は足早に路地を通り過ぎていく足音はいくつか聞いた。音を立てて水溜りを過ぎていく車の音も何台も聞いた。しかしここには誰も立ち寄らない。 どれ程の時間ここにこうしているのか、どこから来たのか、彼は覚えていない。昨日からだったような気もするが、今朝からだったような気もする。もっと前かも知れない。ここにきてから何度
2015年8月16日 01:38
言葉は酷く簡単に投げられ。 それが賽を投げる号令。 進めるべき駒は容易く動き、そして消費されていく。 地鳴りのような大軍の動く様は勇壮と言う他なく。 その最前を飾るのは、美麗と言うに値する華々しき将の雄姿。 都にうら生る白瓢箪にはない馬臭さが、寄せては返す波のように。 雄雄しき華を咲かす白刃が、鎧のぶつかり合う激しさを清々と斬り裂く。 馬蹄の跳ね上げる泥濘に、朱の雑じる臭気。
2015年8月16日 01:14
派手さも華やかさもない、素朴な田舎の原風景。視界は随分と近くに見える標高の低い山に切り取られ、山の手前には普段は大人しい清流が。そして、狭いながらも視界手前には畑と農道を拡張しただけのような町道、静寂を好む民家があるきりだ。 秋特有の空は高く、冬のそれには及ばないながらも空気は澄んでいる。鮮やかな青に抱かれるヒトの営みは、けして溢れる程に物があるわけではない。しかし随分と穏やかに豊かに紡がれて
2015年2月20日 11:25
不意に、土手を歩いてみたくなった。 そんな思い付きで彼は、夕方特有のどこか哀惜ある空気の中を歩きながら、引越しの荷物から出てきた鍵をポケットから取り出した。夏の気配が残る陽射しを弾く銀色のそれは、幾分くすんで黄色味掛かっている。褪せた写真のようなその色は、彼の古い幼い記憶を刺激した。 彼が物心ついた頃には祖母と二人で暮らしていた。顔も思い出せない両親の記憶は、朧げにしかない。 何故自分には
2015年2月20日 10:55
せめて貴方の傷も……… 雪が降ると、決まって彼女はその場所を訪れる。今は随分と様変わりしてしまったその場所に。(………あの人、今はなにしてるんだろう……?) 胸中に呟き、彼女は遠い記憶にそっと微苦笑をおくった。 彼女の今いる場所はかつて、幾分古ぼけたベンチが一つあるきりの見晴らしの良い高台だった。今はきれいに整備され、コンクリートの見張らし台に複雑な装飾の施された四阿が自己主張している。