使わなくなった鍵

 不意に、土手を歩いてみたくなった。
 そんな思い付きで彼は、夕方特有のどこか哀惜ある空気の中を歩きながら、引越しの荷物から出てきた鍵をポケットから取り出した。夏の気配が残る陽射しを弾く銀色のそれは、幾分くすんで黄色味掛かっている。褪せた写真のようなその色は、彼の古い幼い記憶を刺激した。
 彼が物心ついた頃には祖母と二人で暮らしていた。顔も思い出せない両親の記憶は、朧げにしかない。
 何故自分には両親がいないのか?
 全く疑問に思わなかったわけではない。何度か祖母に問うてみようと思った。しかし彼にはそれができなかった。理由はわからない。それでも父兄の集まる行事のある度に、ぼんやりと遠くを見詰める祖母の目に躊躇った。そこにある深い悲しみの色を見付けてしまったその時から………。
 あれからどれ程の時が経ったろうか? 祖母が亡くなったのを機に祖母の家を出、一人暮らしをはじめた。その引越しの荷物を解きながら見付けた鍵が、今、彼の手元にあるそれだ。
 なんということもない古いその鍵は、祖母と暮らしたあの家の鍵。
 小学生の頃、首から下げていた玄関の鍵。
 嫌なことがある度に、お守りのように握りしめていた鍵。
 手に馴染んだ小さな感触には、彼の。そして彼と祖母の記憶のカケラがいくつも染み込んでいる。
 もう二度と使うことのないこの鍵は、身も蓋も無い言い方をすればただの不要品でしかない。
(それでも、捨てられないんだよな………これからもずっと)
 不意に彼の唇に笑みが浮かんだ。胸中に零れた言葉に柔らかな温もりが体に広がるような気がした。
 そっと、慈しむように鍵を手の平に包み、彼はそっとポケットに鍵をしまう。視線を巡らせれば、夕焼けの色を映す川面が背の高い雑草の向こうに覗いた。
 その景色を見るともなしに眺め、彼はひとつそっと吐息を落とすと未だ荷物の散乱した新しい住家へ向けて踵を返したのだ。

#ショートストーリー #小説 #引っ越し

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