雪の降る日

せめて貴方の傷も………

 雪が降ると、決まって彼女はその場所を訪れる。今は随分と様変わりしてしまったその場所に。
(………あの人、今はなにしてるんだろう……?)
 胸中に呟き、彼女は遠い記憶にそっと微苦笑をおくった。
 彼女の今いる場所はかつて、幾分古ぼけたベンチが一つあるきりの見晴らしの良い高台だった。今はきれいに整備され、コンクリートの見張らし台に複雑な装飾の施された四阿が自己主張している。
 この場所で彼女は、ほぼ毎日のように一人の青年と会っていた。いや、会っていたというのは語弊がある。ただの一度も言葉を交わしたこともなく。ただの一度も会釈さえ交わしたことのない青年。
 彼女が当時飼っていた犬の散歩で通りがかる夜八時過ぎ。青年は決まってベンチから眼下に広がる夜の街を眺めていた。時に苦しげに。時に歯痒さを滲ませたような目で。感情を面に出す事をためらう雰囲気を纏って。静かに。ただ。雨に濡れる事も厭わず、肩に雪を積もらせる事も意識に無いかのように。
(………貴方はなにを思ってそこにいるの?)
 彼女は青年の姿を視界におさめる度、胸中に言葉を落としていた。しかし、直接尋ねた事は一度もない。
 静か過ぎる気配に、他者を拒絶する色はなかった。しかしそれでも触れてはならない何かを、青年の気配は滲ませていた。
 過去に思いを馳せ、彼女は一人、四阿に足を向けた。雪の僅かに積もったその場所は、かつて青年がいた場所。眼下に広がる夜の街も随分と変わった。低かった視界は高層マンションに遮られ、屋上にぼんやりとした赤い光を明滅させている。
(貴方の見ていた景色は、今は随分と変わりました。貴方はあの時の景色に、なにを思っていたのですか………?)
 声にはせず、ただ静かに言葉を漏らし、彼女はそっと四阿の柱に額をつけた。伝わってくるのは痛い程の冷たさだけ。答える声はない。
 そっと白い吐息を零し、彼女は柱から額を離した。
(せめてこの雪がとける時、あの時の貴方の傷もあらい流してくれますように………)
 静かな祈りを零し、彼女はそっとその場を後にしたのだった。
 今もかの青年が、この場所を時折訪れている事など知りもせず………。

カタチのない想い

 彼はうっすらと積もりはじめた雪の上に残る足跡へ目を止めた。
 男の物ではない。ヒールのある靴と思われる足跡が、一往復分だけ。くっきりと残ったそれは、まだ足跡の主が去って時があまり経っていない証拠だ。
(彼女、だろうか………?)
 どこか期待を含んだ響きでそっと胸中に呟いた。自らのその言葉を、緩く首を振る事で否定すれば微かな自嘲の吐息が唇をつく。彼は唇に微苦笑をそっと浮かべ再び緩く首を振り、足跡を辿るように足を進めると石造りの四阿へと足を進めた。
 視界に広がるのは、高層マンションの屋上にぼんやりと点滅する赤い光。そして、開発が進み昔よりも確実に狭くなった視界が彼の胸に時の経過を実感させる。
(今でも彼女がここへ来るなんて………ありはしないだろうな)
 自らに言い聞かせるように言葉を胸中に落とし、彼は過ぎ去りし時を瞼の裏に思う。そこに浮かぶのははっきりとした姿ではない。犬の散歩をする足音のみだ。
 その音を耳の奥に蘇らせ、彼はそっと記憶の中に意識を遊ばせた。
 当時。それはもう十年も前の事だろうか。
 彼は夕刻になるとこの場所に足を向けていた。
 ただ、視界に広がる夕刻の景色をベンチに座り眺めるのだ。誰と会うわけでもなく。いや、誰とも会いたくなくてこの場所を訪れていた。
 彼はなにをしても上手くいかず。なにをしても裏目に出てしまう己の状況に足掻いていた。
(いっそ、消えてしまおうか………?)
 戯言のように胸に浮かぶ言葉を弄びながら、しかしけして自ら死を選ぶ事などない己を、彼は自覚している。言葉を弄ぶ事で、彼は身のうちに居座る一人では消化しきれない感情を抑えていた。不意の刺激に爆発しないように……。
 そんな時、彼は偶然にも犬の散歩で毎日、ほぼ決まった時間に背後の小道を通る彼女に出会った。いや。出会ったというには語弊があるだろうか? 背中越しに、ただの一度も言葉を交わした事さえない少女なのだから。
 それでも彼は、犬の散歩の途中、背後で僅かの間そっと足を止める彼女にいつからか不思議に心救われる自分がある事に気付いた。
 それはあまりにも微かな感情の揺らぎ。想いという程のはっきりした形ものではない。使い慣れた道や電車の中でいつも擦れ違う他者のような。言葉を交わすこともなく、ただいつも見掛ける存在。それはそんな他者に感じる感情と似た感覚だ。
 いつもの時間、いつもの場所。
 そんな些細な事の繰り返しが、不本意な現実に囲まれ疲れた彼の心に不思議な安堵を与えていた。
(また、彼女は来るだろうか………?)
 彼女の気配が通り過ぎて行く度、彼はそっと胸中にそんな言葉を漏らす。
 そんな日々をどれだけ過ごしたか。いつの間にか彼女は彼の背後の小道を通らなくなっていた。
 そして彼もまた不本意な現実から一転。思うままに周囲の状況が動きだしこの場を訪れる回数も減っていった。
 ゆっくりとした時の流れは二人の現実を結ぶ事なく流れていく。ただ静かに。しかし確実に。
(彼女は今……)
 不意に漏れた言葉に、彼は微かに苦笑を漏らし緩く首を振った。
(なにを期待する? なにを求める?)
 自らに問いながら、しかしその先に答えなどあるはずもない。彼は狭くなった視界に静かに映る景色に、そっと切なさの滲む吐息を零した。
 緩く一つ瞬き、自らの足跡を辿るように踵を返す。そうして彼は再び戻って行くのだ。彼を取り巻く現実の中へと………。

雪の道

 今年はじめての雪が降った。初雪であるにもかかわらず、降雪量は例年になく多い。視界は見渡す限り雪色に塗られていた。
 雪の日特有の静けさを自室の窓から眺め、彼女は徐に立ち上がるとコートを手に取った。階下のリビングには、テレビを囲んで両親と妹が寛いでいるだろう。
 雪にいざなわれるように、彼女は買い物があるから、と家族に伝え家を出た。
 玄関を出ると途端に体を包むのは、どこか温かくも感じる冷えた空気。雪を踏む静かな感触をブーツの底に感じながら、足首までもある雪の中を小高い丘に向かって歩き出した。
 その道は彼女がまだ学生であった頃、飼い犬の散歩でよく使っていた道。真っ直ぐに伸びる道を進んだ先には、小高い丘があった。
(なんで急に行きたくなったんだろう………?)
 自らに問い、彼女はそれでも足を止めず道を辿る。今はきれいに整備されたその場所も、かつては古ぼけたベンチがひとつあるきりだった。
 そこで毎晩のように飼い犬の散歩の途中に会っていた青年の姿が浮かぶ。否、会っていたというには語弊があるだろう。言葉を交わしたこともない青年なのだ。全てを拒絶したような気配を見せながらも、ただ静かにそこに座り込んでいた青年の背中を。
 当時の光景を胸に浮かべ、彼女はそっと唇に薄い苦笑を浮かべたのだった。
 彼は満員電車を下りたその足で自宅とは逆の方向へと向かっていた。そこはかつて、彼が毎日通い続けた場所。なにもかもが上手くいかず、半ば自暴自棄ともいえる感情を抱えていた、そんな時期に通っていた場所だ。
 当時は見晴らしの良い静かな夜の景色が広がっていたそこは、今はきれいに整備された東屋が当時よりも狭くなった視界を見下ろしている。
 その場所へ向けて、彼はその場所の視界を狭くしているビルやマンションをいくつも通り過ぎた。
 その場所の足元に広がる住宅街に踏み込んでしまえば、雑音はほとんどない。暖かな室内灯の光が漏れる静かな道は、雪色に染まりひっそりと静まり返っていた。
 こんな日は思い出す一つの景色がある。その場所に通っていた当時、毎晩のように聞いていた足音の主だ。飼い犬の散歩で訪れていたらしい少女の足音はひっそりと彼の意識に触れ、ひっそりと通り過ぎていく。
 そんな、日常にはいくらでもあるなんでもない気配と音が当時の彼にはある種の救いになっていた。
(そこに行ってなんになる?)
 自らに問いを投げても、答えは決まっている。行ってみたいのだ。雪が降る度、いざなわれるようにその場へと足を向ける。春でも夏でも、秋でもなく雪の降るこの季節になると、どうしてもその場に行きたくなるのだ。
 約束などない。それでも、当時の気配に触れたくなり自然と足が向いた。
 静まり返った住宅街の道に一筋の足跡を加えながら、彼は雪の伝える冷たさを慈しむようにその丘へ向けて足を動かし続けるのだ。
 辿り着いた丘で、彼女は足跡のない真っ白な景色に出会った。雪を積もらせた東屋も、見下ろす雪景色も。ただ静かにそこにあるばかりで人の気配はない。
(なにか、期待してたかな?)
 当時の、かの青年に会えると?
 胸に浮かんだ自らの思考を笑い飛ばすように小さく声を上げて笑い、彼女はそっと東屋へと足を進めた。ぼんやりと薄明るい雪景色は、彼女の足跡を一筋くっきりと浮かべ静かに時を刻む。
 見下ろす視界は穏やかに小さな光を彼女の目に投げかけ、雪へと華を添えていた。静かなその景色を、東屋の柱に寄り掛かり眺める。コート越しに伝わる柱の冷たさに小さく身震いし、それでも彼女の足は動かなかった。
 時の過ぎるのをぼんやりと眺め、白い息を吐く。体は周囲の寒さを吸いながらも、心には不思議と温もりを感じた。
 その温もりに知らず柔らかな笑みを浮かべ、彼女は飽くことなく雪色の景色を見下ろし続けていた。
 どのくらいそうしていただろうか。不意に彼女は背後に気配を感じ、ゆっくりと視線を巡らせた。眼下の景色から植え込みの上、背後の小道へと続く受け込みの切れ目へと。
 その視線が彼女の背後、この東屋へと続く茂みの切れ目で動かなくなった。そこに暗色のコートを纏った青年が驚いたような表情で立っている。
 雪の日にわざわざこのような場所へと足を運ぶ奇特な者が自分以外にもいた、ということに彼女もまた驚きに軽く目を見開いた。
 青年はけして大柄ではない体格に、どこにでもいるようなサラリーマンといった出で立ち。取り立てて奇抜な格好をしているわけではなかったが、彼女の中でなにか引っ掛かるものがあった。不思議と、今思い出していた青年の姿と重なるものを感じる。
(まさか、ね。そんなことあるわけないか………)
 自らの感じたものを否定し、彼女は小さく首を振った。青年がゆっくりと足を動かし東屋に向けて歩み寄ってくる。その表情は驚きがありありと浮かんでいるが、それでも彼女からは視線を外していた。
 左右の柱に沿うようにそれぞれ立ち、言葉なく景色を見下ろす。互いに相手をそれとなく観察する気配を滲ませたまま、沈黙だけが雪の上に重なった。
 彼は東屋の柱に寄りかかったまま、同じように柱に寄りかかる彼女に不思議な懐かしさを感じていた。
 かつてこの場で背後に感じていた少女の気配と似た雰囲気を感じる。それはこの場であるが為の錯覚かもしれなかったが、それでも確かに彼は懐かしさに似たものを感じていた。
(確かめられるだろうか?)
 胸中に言葉が零れる。彼が今感じているものが錯覚であるならば、それはそれで良いのだ。曖昧なまま感情を持て余しているよりずっと。
 躊躇いながら、彼は言葉を探した。さりげなく、けれど確かめられる言葉を。
 しばらくの沈黙を雪の上に落とし、彼はゆっくりと言葉を唇に乗せた。
「あの………。独り言と思って聞き流してください」
 彼の言葉に、驚いたように彼女が振り返る。その視線を頬に感じながら、彼は躊躇いながらも言葉を続けた。
「もう随分昔の話です。ここがこんなにきれいに整備される前、毎日のように来ていたことがありました。その頃俺、なにもかも上手く行かなくて………。正直自棄になってました」
 緊張に声が震えそうになるのをなんとか抑え、彼は唇を小さく舐め言葉を続ける。
「その頃、毎晩犬の散歩で後ろを通る子がいました。足音しか知らない子なんですけどね。その子が毎晩必ずそこの小道で一度足を止めるんです。数分なんて長いものじゃなくて、すぐに通り過ぎて行ってたんですけど………」
 彼の言葉に、彼女が再び驚きに目を見開いた。けれど彼は自嘲気味に俯いてしまい彼女の表情は見えない。
「その子とは話したことも、挨拶さえしたことなかったんですけど。なんだか救われて………」
「あのッ!」
 彼の言葉を遮るように、彼女が声を上げた。驚きに目を見開き、彼は彼女へと視線を返す。その視線を受け止めながら、迷うような沈黙を挟み彼女が言葉を唇に乗せた。
「あの……それ私、です。なんか目が離せなくて。でも声なんて掛けられなくて。あの時飼ってた犬も散歩に夢中だったし………」
「本当に?」
 驚き顔のまま問う彼に、彼女は小さく何度も頷く。そして更に言葉を続けた。
「雪が降るとどうしてもここに来たくなるんです。あの時のあの人に会えるような気がして。でも、いつの間にか全然見掛けなくなっていたから。もう会うことなんてないんだろうって思ってたんですけど………」
 彼女の言葉に、男はああ、と納得を胸中に落とす。そして苦笑交じりに言葉を続けた。
「あれから俺、なんとか上手くやって行けるようになって………忙しくなったりしてあんまり来れなくなってたんだ」
 その言葉に、彼女の顔に淡い笑みが浮かぶのを確認し、彼は言葉を更に重ねる。
「でも、今日来てみて良かった」
「私もです」
 どこか嬉しそうに頷き、彼女は柱から体を起こした。ひやりとした冷たさが体に残っているが、今は不思議とそれを嫌だとは感じない。静かに雪を踏み彼へと歩み寄った。
 彼女が目の前で立ち止まるのを待ち、彼ははにかんだような笑みを浮かべ言葉を唇に乗せた。
「名前、聞いても良いかな?」
 彼の言葉に彼女はくすぐったそうに首をすくめて頷く。
「はい。また話してみたいんですけど………迷惑、じゃないですか?」
「俺なんかで良ければ」
 互いにどこかくすぐったい温かなものを胸の内に覚えながら、名乗り合った。
 それから夜が更ける頃まで、二人は互いの記憶を埋るようにその場で取りとめもない言葉を交わし続けるのだった。

#ショートストーリー #小説

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