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読書感想文 Ⅰ / 人は死なない 







前述


いつか読みたいなぁ。と思っていたけど忘れかけていた本、ふとしたきっかけで、あ、読むの今だ。ってなったりする

それがたまたま3冊重なったしテーマが似通っていたので、せっかくだから忘備録的にnoteに記しておこうと思いたちました




✔「人は死なない」矢作直樹著
  / バジリコ株式会社




今回は本の感想から派生して生死に関する話と能における潜顕在意識の話も加わり文章が長くなりましたが、正解不正解主義主張ものではない、結論もない、あくまで現在の超個人的見解です





あらすじなど


「人は死なない」



とりあえず、
題名のインパクトすご


初出版は12年前

後に著者の矢作さんは縄文時代の人々の心の在り方にも言及されていると知り興味を持った

元お医者さんで、たくさんの方々の命のあり様に関わっていらした方

ご自身の趣味、登山で体験した九死に一生話や、ご家族や患者さんのお話が綴られている

他界されたお母様と媒体者を通して言葉を交わしたり、「霊性」のキーワードが頻繁に用いられているので訝しげにオヤヤと思う方もいらっしゃるかも

しばし本から少し離れての補足となりますが

読後に観たとあるインタビュー動画内、

出版当時の周りの反応は

世間一般→「えっ、大きいとこのお医者さんが(霊性とか魂とか)、そんなこと言っちゃうの?!」で、

同僚医師達→よくぞ言った派とダンマリ決め込む派に分かれた

だったそう

てことは、少なからず同じ意見を持つ病院関係者がいらしたのだ

やってしまいがちだけど、肩書に対する色眼鏡や逆色眼鏡は勿体ないね



お察しのようにタイトル「人は死なない」は、物質的肉体の終わり状態が人の最後ではない。の意味

文中

「人間は見ようとするものしか見ない」(ユリウスカエサル)んだけれども
南米出身登山家メスナーさんの遭難時にあった、極限状態における謎の存在の出現を『サードマン現象』と呼ぶようになったことを例に挙げて

「スピリット(霊魂)」「マインド(心)」「ボディ(体)」の調和こそが人間の姿だよ。と仰っている




私的死生観など



わたくしの話になり恐縮ですが、

視える経験は
ほぼなく

霊体験みたいなものは唯一で

3つ上のお姉ちゃんが他界した病院先から自宅に車で帰る途中、ずっと左肩の上がすごーく温かくて、道中わたしは前向いたままで肩には終始一瞥もしなかったんだけど、くっきりとした感覚で家までのドライブを一緒に楽しんでるのが肌身でわかったから、その時は安心しかなかったのを鮮明に憶えている


〈生霊死〉

非常にデリケートなトピックだけれども、

自分がどう感じるか。が、まずは大事で、人生、人それぞれにこだわりポイントが違うし、日常生活困らない範疇お互いの考えを尊重しながら出来る限り自由なのがいいかな

(わたしなりに試行錯誤しながら生きてきているので肉体や生命を軽んじて話しているのではありません / 数々経験済み故、肉体の終わりが希望となることを否定できない)

一方、実際親しい人が他界するのは言葉にならないものがある

秘すものは伏せながらも[死は蓋をすることだ]と思いたくない感じ

(あまりに現代は死が日常から切り離されてしまったと著者の矢作さんは指摘されていた)




以下、

ややこしくなるのを承知の上での蛇足だけども、「死」は2種類あると思っている


肉体の終わりの死と
精神の始まりの死

武士道を説いた葉隠の有名な一節「死ぬことと見つけたり」は、物質としての死の前に『常に心のなかで死んでおけば、生きるにあたり迷いが消える』ことらしいから、切腹うんぬんよりもここでは後者の意味になると考える


事情により、わたしはまぁまぁ、以前にも増して〈生きるための死〉に大変お世話になっている

受動的能動的両方の意味で、死(=タナトス=精神的な生まれ変わり=幻想リセット機能)があるから生きていられる



死があるから生きていられる

って、ゆーと、
なんか変な日本語になってしまうけども。。

死、というか
意識の彼岸、瞬間の無。に近いかな。。






ともあれ、

『複式夢幻能』について知れたことが、読了一番の収穫だった

(次回紹介予定の白洲正子さんも能の舞手でいらした)



複式夢幻能について



〈複式夢幻能〉とは

場面設定が
ひとつだけの(現代)能に対して、

主役である霊(シテ)が

▷前半=現世界と
▶後半=他者(ワキ)の夢の中

前後半にわたり、立場を変えて登場する古典的形式を指す

▷▷前半
旅の僧に扮するワキが旧跡を訪れると、土地の人の姿を借りて現れた霊(シテ)がその場にまつわる昔話をして

▶▶後半では
霊(シテ)が実際生きていた時の本来の姿で先の僧の夢なかに現れ、最後に舞を舞い成仏し、鎮魂されるのだそう



素人妄想の荒技で砕くと

なにかとやるせなさを抱えた霊さんが、

『ねぇねぇ聞いてよ、やんなっちゃう、もー、舞わずにおれるかっての!あ、ちょいと、よかったら見納めくださいましなー。ひょいなーひょいなー、あー、気が済んだ。マジさんきゅー、バイバイ、らぶりぃ。』っていう霊魂納得物語

に、なるのかな



肝だと思うのは、そこでの旅人(ワキ)が、脇であり主役ではないながら、霊(シテ)の貴重かつ重要な〈想い見届け公証人〉だということ

両者がいてはじめて成り立つ幽玄世界

「顕幽二界の交通か頻繁で、どちらかの意により招き招かれるのに困難はない」
昔の庶民の生活死生観を民俗学者柳田國男さんはそう表現されていたそうで、なるほど

顕幽の両者は双方の自分自身でもあるかな



つまり、

ひとつの能舞台という空間に

▷生者(僧・他者)と▶霊(仮姿)
▶霊(本姿)と▷生者(他者の夢) 

が 存在する

顕在と潜在が自在に入れ替わる

世界、オモロ

あわせて4つの様相が
ひとつの空間のなか
流れのなかで
入れ替わりゆく



[下方 イメージ図]

舞台は正方形

左の====は袖幕と舞台を結ぶ、橋掛(はしがけ)

橋掛は同時にあの世と此の世を繋げる参道、産道でもある




          ▽

       ======■□
         □■

          △




↑↑↑

主客転倒の果て、こうして霊や非物質を《見立てメタ見》できている観客側意識って、なんか不滅感ありありで、たしかに、この意識は死ななそう

むしろ、
死にようがないじゃん的な

生きながらそこに逝けてると
なにかと舞台上やりやすいか

後悔も少なそう



霊界の有無については知らないけれど、八月、お盆に故人さんらが還るのも普通にあるあるだもんね


わたしなら、あっちから一定期間こっちに通って、長らくお盆旅行も楽しんだなぁ、もういっか。ってなれて気が済んだら、チャオチャオー。って遊びに来なくなるかも

知ってる人がいなくなったら、あんま、キョーミ持てないかもだし

や、

逆に、霊にならないってのも、ひとつの選択肢としてありだな

あ、そーだ、そーするかもー



って、

そんな、
ハイパーなイメージが存在するところにエンタメで誘う世阿弥ちゃんスゴ


アイドルが過ぎると、「さん」が「ちゃん」になる失礼感





文化的DNA、MEME


去年他のSNSで紹介させて頂いた

「あわいの力」安田登(能楽師)著

でも、

息によって異界の霊的なものを招き自分が霊そのものになりうる身体性が日本には脈脈と流れていて、万葉集などがそれを現す歌なら、能はそれを芸能で表現したものである。と、書かれている




そういえば、

肉体の遺伝子をDNAと呼ぶに対し、文化のDNAをMEMEと呼ぶらしいのだけど

言葉って、文化のいっちゃん身近でいっちゃん最小単位なもののような気がする

たからか、嫌いになりたくないな

間違えだらけの自分だし、日々、色々思うとこあるけど、やっぱり好きでいたいんだ



そして

仕事分野においては

まさに縄文土器もMEMEっぽい

これからの焼き物もそのお仲間になれたら素敵だと思う




そんなこんなで、

文化のDNAもまぁまぁ死なないし、大事にしたいな。
っつーことで、

紹介残りの2冊もそんなMEMEに関する本になりますが、こんなに長い感想文ではないです




てか、
投稿の今日

マジお姉ちゃんの誕生日

忘れがちなのだけど、毎日誰かの誕生日

だからなんだってことでないけども



以上、
好き勝手言い散らかしました

お姉ちゃんは相変わらず呆れ笑い顔だな、きっとー

長々とご拝読ありがとうございました




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