noteに書くということ
最近、noteを始めて、文章を書くことがまた好きになってきた。
散文的な文章はこれまでも書いてきたが、人に読んでもらおうという意図で積極的に書くのは久しくなかった気がする。なぜそんな気になったかというのを自分なりに考えてみたところ、2つの大きな理由が思い当たった。
1. クリエイターが「スタンバイ」状態になる土壌(デザイナー的理由)
ひとつは、最近のnoteは「発信」の土台が整った感じがしたから。「発信しよう」と考える行為は、自分の気持ちを「スタンバイ」の状態に持っていくというクリエイターにとっては一番大事なフローに直結する。そう言えばこの場がどんなに大きい意味を持つか分かるだろう。
もう少し詳細を書くと、クリエイターが「発信」をするには「何か新しいもの」を発見しなくてはならない。誰もが知っているものなど改めて告知することに意義はないからだ。それはクリエイター以外の人がやればいい。
クリエイティブにおいては実際に「作る」工程よりも「何かを見つけよう」というフェーズの方がよっぽど大事で、作るなんて行為は文字通り作業でしかない。そんなことは目をつぶっていてもできるのだ。それよりも、どうやって「スタンバイ」の状態に自分をもっていくのかが、良質なアウトプットになるかどうかの鍵となる。
「発信」を考えることは、「何かを見つけよう」というアクションを導き出し、自分をスタンバイの状態におくための糧となる。そのプラットフォームとしてはnoteは有意義なツールだと感じた。
2. 過去の自分と未来を繋ぐ道しるべ(私的理由)
もう一つは私的な理由だ。
こちらの経歴にもちらりと載せたが、そもそも自分は、中学生くらいまでデザイナーではなく小説家になりたかったので、文章を書いていた。
しかし、中学生程度では文に「体験」が乗せられず、内容に真実味が出なくて断念したのだった。
例えば荷台に揺られて太陽を浴びて寝そべる描写は、その時の太陽の光、風の感じ、周りの風景までも見えていないと、書いても伝わらないし、そんな半端なイメージでは書いてはいけないと思っていた。「真実」がひとの心を動かすのだと。
今は、小説こそ書く気はないものの、文に「実感」を乗せることはできる。
「実感」とは、今までの人生において導き出された、自分にとっての「真実」だ。
そう、だからこそこれからの方が、何かを書くには面白くなるはずだと思っている。
大人は時間と引き換えに等価である「実感」を体験によって手に入れるのだ。歳をとればとるほど。
たとえ、今が大した言葉を持ち合わせていない自分でも、明日には体験によってアップデートされているかもしれない。そう考えると、少し歳をとるということが楽しみになってくる。
noteに何か考えを書いてみる。ささいな発見でもいいし、大仰な思想でもいい。私的なことでも一向にかまわない。僕にとってそれは、過去の自分からの想いのバトンであり、現在地を知らせるフラッグであり、明日のためのストレッチである。