今日で遂に40歳になった。人生の半分が終わったと言っていい。色々思うところをFacebookに書いたので、せっかくなのでnoteにも久しぶりに置いておこうと思う。 本日、ついに不惑に突入。40か。信じられない。30になった時に僕は、「子供の頃に想像できた“自分が大人になった姿”は20代までだった」と書いた。それからさらに先の未体験ゾーンに突入。さて、これからどうなるだろうか。 ここ最近はというと、直接会った人にはよく話しているのだが、僕自身はもう終活に入った気で生きている
言葉を紡ぐ。それすら正解と言えるかどうか。 分からないのに本当に皆言葉を信じたがるものだ。 今、世界には昔より言葉が溢れている。 当社比2.5倍くらいの感覚値で、どうやら浸かって溺れてしまうくらいにはあるようだ。皆その潮流に翻弄されて右往左往している。 それもこれも、皆額面通り言葉を受け取ってしまうからだ。 言葉は元々、気持ちを乗せる乗り物として生まれた。だから、その裏の気持ちを読まなければ本来、意味がない。そんな簡単なことを皆、忘れてしまっているだけなんだ。 自分の気
昔、バンドを一緒にやっていたメンバーと飲みながら「完全なるオリジナリティは世の中に存在するのか?」という話で夜中まで討論になったことがあった。 その時、僕以外の2人は「存在しない」というスタンスで、僕が唱えたのは「人は唯一無二なんだから、誰かから影響を受けたとしても『自分』というフィルターを通している以上、結果的にそれは唯一無二のオリジナルである」という説だった。 まぁ双方どちらにせよ同じことを言ってるのだ。要は人に影響を受けない創作物など存在しないと。 最近、「誰々のあ
何度でも言うが、「物を作る」なんて字の通り“造作もない”ことだ。創作においては、作るフェーズよりも圧倒的にスタンバイの方が大事なのである。 そしてそのスタンバイの質はダイレクトにクリエイティブの質に繋がるのだが、その理由とスタンバイの質を上げる方法を書いてみた。 「顔に見える場所」を撮る写真課題の意図 多摩美の学生の頃、写真家の十文字美信先生の課題で「顔に見える場所を撮る」というものがあった。その時に仰っていたことが素晴らしくて、今でもよく覚えている。 「顔に見える場所
レイモンド・カーヴァーの小説「僕が電話をかけている場所」の中で、繰り返し思い返す場面がある。ずっと頭の中でリフレインしている、ひとつの台詞。 アルコール依存で施設に入っている主人公の「僕」が、同じ境遇のJPという男と療養所のフロント・ポーチで話し込んでいる。 JPの最愛の妻は、夫とのとりかえしのつかなくなった関係を解決する方法のひとつとして、新しいボーイフレンドを見つけるというやり方をした。 家の仕事やら子供の世話をしながら、よくそんな時間があったものだよな。と、JPは言う
「なんか良い」「なんか悪い」という感覚がある。 そんなことをミーティングの場で言ってしまえば、「ハッキリした理由を言えよ」と槍玉にあげられ、誰かの論理立った主張の元に淘汰されることもしばしばだ。 だが、本当にそれでいいのだろうか?論理によって感覚を安易に押し除ける前に、ふと疑問を持って欲しいと僕は思うのだ。 小学生の時の学級会で、こんなことがあった。レクリエーションに関して討論する場面。「ドッヂボールがいいと思います」「紙ヒコーキ大会がいいと思います」とか、遊戯の詳細は忘
物の数が少ないのが美しいのではなくて、あるべきものがあるべきところにある状態が美しいのだ。デザインやレイアウトも然り。 ミニマリストとは単に物を持たない人ではなく、「でもそうやって人間が完璧に管理できるものの数って、実はそんなに多くないよね」という主義者のことを指すのだろう。 シンプルな思考は礼賛されるべきだが、実はそれは「多くのものを管理できるほど人間は優秀ではない」というひとつのシニカルな答えに依ることを忘れてはならない。 そう、人間はそんなに優秀ではない。 すべて
また芸人さんの例えになって申し訳ないが、以前。 古いテレビ番組の『松紳』を作業中に流してたら、松本人志さんが、「相方の休む日に番組を一人でやってくれないか?」とスタッフに問われたことに対して、「できるか!」とキレたという話をしていた。 その説明として、「僕の仕事は作られたものを壊す仕事なんですよ。作られてもいないものを壊せと言われてもね」とさらっと言ったが、それはクリエイターとしては、すこぶる腑に落ちる話だった。 というのも、ものづくりに携わる人間としては、そもそもの「常識
誰かがやってのけたことは簡単に見える、という話。 「モノマネは最初に見つけた奴が偉い。モノマネのモノマネは誰でもできる」と、以前モノマネ芸人の誰かが言ってたけど、万事そうなんだろうと思う。 誰かが作ったフォーマットのコピーは簡単で、当たり前に見える。その当たり前である「オリジナル」のフォーマットを作った人は、実は膨大な量の情報の取捨選択を行なっている。 例えば、モノマネ芸人のホリさんが木村拓哉のモノマネで「ちょ、まてよ」と言うまでは、誰も木村さんがそんな風に言ってると
最近、noteを始めて、文章を書くことがまた好きになってきた。 散文的な文章はこれまでも書いてきたが、人に読んでもらおうという意図で積極的に書くのは久しくなかった気がする。なぜそんな気になったかというのを自分なりに考えてみたところ、2つの大きな理由が思い当たった。 1. クリエイターが「スタンバイ」状態になる土壌(デザイナー的理由) ひとつは、最近のnoteは「発信」の土台が整った感じがしたから。「発信しよう」と考える行為は、自分の気持ちを「スタンバイ」の状態に持っていく
前回、受注脳に陥りがちなデザイナーが、自分発信で個展をする意味をどこに見出すのかという葛藤と、どのような思考でそれを打破したかの記録を書いた↓ グラフィックデザイナーが個展をする意味をずっと考えていた 簡潔にいえば、受注脳であるデザイナーの思考を逆説的に利用し、グラフィックデザインというジャンルそのものをクライアントに見立てることで、それを突破するという方法をとった。そして、『GRAPHIC IN PROGRESS』と銘打ったグラフィックデザインの研究を、ライフワーク的に
昨年の3月に中目黒のGALLERY 7°Cで。今年の1月にヒカリエで。2度に渡って個展を開催した。 しかし、僕はアーティストでもイラストレーターでもない。グラフィックデザイナーだ。「グラフィックデザイナー」がわざわざ個展をするということの意味とは、一体なんであるべきか。そのコンセプトメイキングに、随分と苦心していた。 「グラフィックデザイン」への恩返し それまでもずっと個展はやりたかったものの、ずっとモヤモヤと「ああでもない、こうでもない」と内容とテーマを考えるだけで遅々