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すこやかに生きていくためにきんぴらを習得したかった

今でこそ日々の食事の90パーセント以上を自炊が占めているが、実家を出るまでは料理に興味はありたまに台所に立ってはいたものの主たる食事を作ることもなければレパートリーも少なかった。

レパートリーの少なさの大きな理由として、「わざわざレシピを見て作るような特別なものばかり作っていた」というものが挙げられる。誕生日、クリスマス、母の日父の日、おもてなしなど何らかの機会に乗じて作るものたちは、そりゃ〜おいしいのだけど日常的に食するようなそれらとは正直程遠く。そしてどれもが大成功を収めるわけではなく、舌にも手にもレシピとの相性というものは体感として存在するのでその中でも偏っていくのであった。

それでも、なぜか昔から外食やテイクアウト、買い食いなどはあまり好まないたちだった。それだけに母や祖母は大変だったと今更思う。そのくせ「いつかなんとかなるでしょう」と泰然と構えていたのだが、しかしその「いつか」がいつなのか、加えてどんな理由で訪れるのかは皆目見当がつかないままであった。

20歳をすぎたあるとき、同じ大学に進学した高校時代の友人たちが連れ立って海外の提携校に留学したときの話を聞く機会があった。当時の私は留学、もとい海外での暮らしどころか親元を離れたことがなかっただけに、彼女たちの暮らしぶりの話を聞くのはたいそう刺激的で面白かった!あのスーパーマーケットの風景が、道路の雰囲気が、人々の服装が、日常にあったなんて。ワクワクしながらもっともっとと話をせがんだ。

その中でも一番強い印象にあるのが、この話。
「向こうでの食事というか味付け、もっといえば日本みたいな食の選択肢もなかったからゲンナリするほど日々のごはんに飽きてしまったんだけど。そんなとき、現地スーパーの謎の根菜でMちゃんがきんぴらを作ってくれたのを分け合って食べて、それがサイコーだったんだよね」

胸を打たれた。こういうスキルが私にはない。生活に馴染んだ「基本となるレシピ」を応用して、土地のものを美味しく食べて元気になれるような豊かさを持っていた友人のことをえらく尊敬したことを覚えている。
その時私は思ったのだ。「ああ、すこやかに生きていくためにきんぴらを習得したい!」

きんぴらという料理は我が家において「頻出」かつ「高難易度」のカテゴリに入るものだった。以前もきんぴらと母という人物についてのnoteを書いたのだが、したがって私は「習得自体むずかしいもの」という固定観念にとらわれていた。

ところがそこから数年が経った今、きんぴらは恐るるに足らず。それどころか強い強い味方として日々の食卓の仲間になってくれている。
だって簡単なんだもん!油を馴染ませるように炒めて、酒と味醂と砂糖と醤油or塩、おわり!
それでいて根菜をはじめとして比較的どんな野菜にも応用が効き、滋味深く美味しく食べられるから大好きだ。

もしも今しばらく海外で暮らす機会に恵まれたとしたら、迷いなく現地の野菜で作るもののうちのひとつに「きんぴら」が入ってくる。なんなら野菜だけでなく、その土地に存在する淡白な酒類や独特のしょっぱい調味料などを使ってみたい。そうやって、まるで遊ぶようにちょっとした非日常きんぴらを楽しむかもしれない、、なんて妄想だって繰り広げてしまう。

そんなワクワクをくれたのは、遡ればきんぴらを作って振る舞ったすてきなMちゃんと、その記憶を楽しく話してくれたUちゃんのおかげかもしれない。彼女たちにとっておそらく生涯忘れないような日々の中に存在したきんぴらは、一体どんな味だったんだろう。

きんぴら、大好き。



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