葛湯と再会して、好きだったもの、今でも好きなもの、それでも忘れてしまえるんだなって思った。
あんかけなんちゃら的テクスチャのとろみのある食感のもので美味しくないものを知らない。
とろみってそもそも日本語として良すぎる。あの感じはとろみ以上でもとろみ以下でもなくJUST とろみ 素晴らしい
いきなりなにを言い出すかと思っただろう。これは最近、スーパーで買った葛湯を10数年ぶりに飲んで脳裏に湧き出た感想である。
葛湯、周りに聞くとなにそれ?って感じの答えがよく返ってくるのだが割とどこにでも売ってて不思議。文字通り葛(今だと片栗粉的なものが主成分のことが多い)の粉をお湯で溶いてお砂糖を入れたものなのだが、これがすこぶる美味しい。優しい甘さ、なめらかなとろみ、冷めにくくてアチチチチチチとなるのももう逆に良い。
むかし『昭和の暮らし』みたいな本を読んでたら出てきて無性に気になり、祖父母の家でねだって飲ませてもらったのが最初だ。ポットのお湯がぬるかったのかサラサラの舌触りだったそれを、祖父が「こんなもんじゃない」と言ってレンジであっためてくれたら途端にトロントロン、いやあれはもはやポルンポルンぐらいの感じになって面白かった。抹茶味とかあって、美味しかったなぁ。
で、最近再会したのだ。
食後に甘いものを食べるのが殊の外好きなのだが、流石にこう続くとな、しかしなんか惰性というか習慣で食べたくなっちゃうよな、となってスーパーを徘徊してた際に、でかい「くず湯」という文字と目が合った。あ、確かそこまで甘くないがお腹は膨れる記憶がある、と思って久しぶりに買って飲んだらこれが美味しくて美味しくて。
甘さ自体はとても素朴で優しいのだけど、冷めづらさからフーフーしつつゆっくりゆっくり飲むのでとても満足感が高い。お腹の中でも温もりが続くのかぽっかぽかになるのも嬉しい。
あぁ、葛湯ってやつは歩きながら飲んだりするもんじゃなくて、部屋の中で座ってゆっくり飲むものだなぁとしみじみ思いながらいただく。つまりは贅沢なのだ。雨風凌げる屋根とゆとりある時間がセットのお飲み物。ハッピーセットなんてもんじゃない。極楽セットだ。やるわね…なんて思いながら毎度楽しんで飲んでいる。すっかり大好きな冬の飲み物だ。再会というか、再発見に近い。
でも、忘れてたなぁ、と思った。
昔飲んだ時も食感の楽しさと優しい甘さが嬉しくて大好きだったし、今だって変わらずとても好きだ。でも、思い出しても求めてもいなかった。不思議だなと思う。好きだったし、与えられる機会を待たず手に入れることもできる、それでも忘れるということが全然あるんだなぁと思ったのだ。
切ないと捉えるならば、それもまた一興。あんなに好きだったのに/こんなに好きなのに、忘れることは悲しいこと?…というセンチメンタルは悪くないかもしれない。
でもどちらかといえば私は喜ばしい。私がいてもいなくても、愛すべき素晴らしいものたちは変わらず存在が続く。思い出さねば2度と会えない、もしくは歩み寄らねば再会できないことだって多いなか、季節やバイオリズムが巡ってふたたび会える日があることそれ自体がもう奇跡に近くないだろうか。
と、ここまで書いて私のわがままさに苦笑してしまった。葛湯と、葛湯がある冬にまた出会えて本当によかった。今年も存在してくれてありがとう。
葛湯、大好き。