サウナで大切なのは「強烈なサウナ体験」だけじゃなく「毎日通える気軽さ」にある
こんにちは。サウナを愛している…いや、愛しすぎているかもしれません。Utoです。
サウナにハマってからほぼ毎日のようにサウナへ足を運び、サウナを通して多くの学びを得ている今一番サウナに対する熱量が高い状態にあると感じている日々を過ごしています。
サウナにハマればハマるほど日本国内に広がる多くのサウナ施設に行きたい!という思いが膨れ上がっていくのを感じますし、サウナの歴史や日本の温浴史やサウナの健康に対する効果など知識の探究も日に日に増していきます。
サウナブームが起こったことで、サウナに特化した様々な特殊サウナ体験を楽しめる施設や、シンプルな作りながら際立った設定のサウナ(温度が異常に高いや水風呂が極端に冷たいなど)、外気浴のロケーションが非日常的なサウナなど全国各地に個性あふれるサウナ施設があり、サウナ愛好家たちは「理想のセッティングのサウナ」や「まだ見ぬ未知なるサウナ体験」を求めてサ活(サウナ活動の略)に勤しんでいます。
昨今において多くのサウナ愛好家によって開拓されてきた、地域に眠るサウナ施設を訪れる多くの愛好家や、プロサウナー監修の夢のような体験ができる新興サウナ施設の誕生などが起こり、サウナカルチャーは急激に発展し、未知のサウナを求めて日本国内全域をサウナ愛好家は駆け巡っています。
全ては「極上のサウナ体験」を求めて…
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そんなサウナブームの中、私は1つ危惧していることがあります。
それは「サウナブーム」という流行による過剰なほどのサウナカルチャーの発展と、行き過ぎた進化をトリガーにサウナ離れを生む「サウナカルチャーそのものの崩壊」です。
私は多くのカルチャーが流行により崩壊する姿を見てきました。
環境の際立ったロケーションやセッティング、過激さや特殊性、特別感やスペクタルの追求は多くの新規層を取り込んでいくことでしょう。
著名人によるサウナ情報の発信や体験談、メディアを通して配信されるコンテンツの数々はサウナ好きを増やし、サウナ業界は今後ますます盛り上がりを見せていくことになると思います。
しかし、結果として従来のサウナ好きはサウナブームにより居場所を失い、マナー違反やエンタメ性の増加でブームそのものに対して呆れてしまうだけでなく、マナーやモラルの崩壊、その場所元々あった世界観の破壊などが起こり、最終的には群がってきた多くの人が「飽きる」ことでブームの崩壊が起こります。結果として定着していた層も離れてしまいカルチャーそのものが修復できないほど壊れていく可能性があります。
歴史が証明しているように「栄えるもの」は「やがて衰退する」ものです。
この避けようがない事実から脱却するために必要なのが習慣化にあると思います。
私はサウナが一貫のブームではなく真の意味で「習慣」となり「生活の一部」になるために「毎日通えるほどの気軽さ」ことが最も大切なのではないかと考えております。
強烈なサウナ体験は習慣化しにくい
サウナブームの到来により「ととのう」という感覚を求めて多くの人がサウナを求めるようになった昨今のサウナブームによって多くのサウナ施設が生まれました。
サウナに特化したサウナ専門店
お洒落でインスタ映えする温浴施設
様々なサウナが楽しめるサウナのテーマパーク
サウナ体験に特化した特別なロケーションの施設
人気のサウナ施設には人が殺到し「サウナに入るために待ち時間が発生する」という現象も起こり、水風呂も芋洗い状態になることもしばしば。休憩スポットは人が溢れて落ち着けないこともあります。
「流行」によって起こるのが「一つの場所に人が殺到する」という現象で、今まで起きた他界隈のブームを思い浮かべてみると今のサウナは同じようなことが起きていることが安易に想像できるのではないでしょか?
※例えばタピオカブームを想像してみてください。少しずつ落ち着いてきましたよね?
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ブームの到来によって特定の施設は「聖地」のような扱いを受け、サウナに入るためにわざわざ遠出する方も多いことから「サウナブーム」が本物であることが分かります。
私はサウナに入るために遠出すること自体は良いことだと思います。
ただ、一定数の聖地のように盛り上がる特別な施設に群がる様はブームの終焉後にカルチャーそのものに大打撃が入らないか不安で仕方がありません。
極端に際立った環境は私も大好きですし、私も人の集まるサウナ施設へはよく脚を運びます。
ただ、私自身そこまで混雑状態の中サウナに入りたいとは一切思わないタイプなので必然的に混雑が回避できるサウナ施設に向かいます。
サウナ好き全員がそういう行動を起こすのであれば分散されるためカルチャーの崩壊は回避できると思います。
しかし、実際には「混雑している⇨行く気がなくなる⇨離れてしまう」という行動になることが多いと様々なブームを体験してきた中で必ず起きている現象であると経験則の中で感じています。
つまり、ブームによって生まれた特別で特殊な極端に際立った環境は「習慣化」まではいかず、あくまで「ブームの一貫」にしかならないことが多いのが現状です。
カルチャーの発展には「特別で特殊な極端に際立った環境」は必ず必要で、常に新しい風を起こさなければカルチャーは発展していきません。
しかし、新しい風は時に「毒」の要素もあり、元々いた愛好家を失う可能性や新たに生まれた新世代の愛好家候補が離れてしまう要因になることもある諸刃の剣なのです。
地域に密着しているカルチャーであるからこそ「体験」と「日常」の両立が必要なのではないか?
気軽に行ける「居場所」としての発展も「体験重視のサウナ」と同じく発展するべきではないのか?
と、アフターサウナブームの世界でカルチャーが崩壊せずに進化し続けるためには「身近」で「手軽」な「毎日通える場所」という視点こそ本質なのではないでしょうか。
サウナブームとはいえ、公衆浴場文化自体は失われつつあり、地域の交流の場としての役割も消えかけています。
強烈さのみでは国内全域を巻き込むような発展はしづらく、結局気をてらった施設のみが注目され、サウナ体験のみが注目されてしまいます。
真にサウナが発展するためには「強烈な施設」だけでなく「誰でも気軽に行ける施設」の発展が必要になると私は考えています。
「気軽さ」の重要性
ラグジュアリーなサウナ施設が目立つ昨今において「非日常的なサウナ体験」を重視している傾向にあります。
もちろん「特別な体験」は重要ですが、サウナにおける特別な体験である「ととのう」は極端な話、サウナ環境であればどこでも体験できることでわざわざ「聖地」へ通い詰める必要もありません。
もちろん、そこでしか体験できないことや、いつもとは違うサウナ体験を味わうことができるのは重々承知ですが、この「特別な体験」も普段から体験していると「いつも通りのこと」になってしまいます。
特別さは時々行くから特別なのであって、その場所しか「知らない」人は離れてしまうのが世の常です。
また、サウナブームによって初期段階から「特殊環境」をデビューしてしまうと、通常のオードソックスな環境では物足りずラグジュアリー志向になりがちです。
私個人として最も危惧するのは「良いと言われている場所」にだけ人が集中し、結果的に特殊環境への慣れによって気軽に行ける施設が淘汰されていく可能性も考えられます。
特殊さには維持するために費用がかかります。維持費のために入館料は高騰していくでしょう。この金額は現在はブームだから問題なく回せるのであって、いざブームがすぎた時サウナへの優先度は下がり結果的に人数は減り維持費が賄えない可能性があります。
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実際に私たちはブームの衰退で消えていくモノを沢山経験しています。
あの遊園地も、総合施設も、ブランドも、サービスも繁栄を極めて未来永劫頂点に君臨するかと思われた企業ですらも世の流れには勝てません。
現在のサウナブームにはある種いつ壊れてもおかしくない脆さがあり、新しい風で発展する予兆のある銭湯やスーパー銭湯が逆風に追い込まれる危険性も可能性としてはあり得る話です。
ただ、サウナは繁栄と衰退を繰り返す人間社会において2000年以上受け継がれている事実があります。
それはサウナが一貫のブームで衰退する様なものではなく、私たちの生活に密着した「必要不可欠なもの」であるためだと私は考えています。
サウナには生きていく上で必要な「何か」を得ることができる要素があり、サウナは「体験」や「非日常感」とは違う「気軽に入るもの」という生活の一部としての日常性があり、サウナの奥深さはその「生活の中に溶け込むほどの生きる上で必要不可欠な要素」を持っていることなのではないでしょか。
日本には蒸し風呂としてサウナと同じ原理の入浴方法が古来からありました。
世界中にサウナと同じ原理の入浴方法があり、数千年に渡って受け継がれているのは「必要なもの」だからであるはずです。
現代社会においてサウナの持つ「必要性」という本質を浸透させ、サウナカルチャーが発展していくためには「気軽さ」という「気兼ねなくストレスを感じさせないいつでも気軽にサウナに入れる」という特性にもっと目を向けるべきだと私は思います。
サウナ愛好家たちの「極上のサウナ体験」を求める姿勢があるから急激なカルチャーの進化は起こりますが、それと同じく地域に根付いた「気軽さ」を重視したサウナカルチャーの発展がなければ、私たちの愛するサウナ自体が少なくなっていく可能性も十分あり得ます。
「気軽さ」と「極上さ」をともに発展させることでサウナカルチャーのさらなる発展と、流行から習慣へとシフトしていくのではないかと思います。
まとめ:「気軽さ」は盲点になりやすい本質
私自身もサウナ体験による快楽性や極上の空間での非日常的サウナトリップに魅せられ、今も多くのサウナ施設を訪れ「最高のサウナ」を求めてサウナの道を歩んでいます。
しかし、そのサウナ体験のみに重きを置く行為はいずれ訪れる「飽きる」という現象の前では衰退の道を歩むことになります。
「気軽に毎日通えるサウナ」を蔑ろにすることでサウナカルチャーそのものに大打撃を与える可能性があるのです。
サウナを日常生活の一部にし、習慣化するには「気軽さ」は重要不可欠です。
「体験」だけを求め、特殊環境を絶賛するだけでは「表面的」になってしまいやがて離れてしまうでしょう。
歴史が証明する様に、ブームとは衰退するものです。
サウナブームが過ぎた時、サウナが日常生活の中に溶け込んでいて、習慣化していればもう一度地域に公衆浴場文化が復活し、サウナは「地域コミュニティ」の復活の基盤として発展すると信じています。