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【短編小説】焼き鳥屋の煙―店じまい―

3,087文字/目安6分


 こんな時間まで飲んでしまった。
 俺の他にも人はいたが、すでにみんな帰っている。隣のスーツを着た男も、家族の愚痴やら仕事の愚痴やら今の日本がどうだとか話している座敷の二人も、いつの間にかいない。スーツ姿の女の人は少し飲むなり出ていってしまったし、その後に来た大学生も散々泣いた後に帰っていった。

 いつもわりと静かな店の中だが、一人になると本当に静かになる。他には大将が一人。片づけを始めていた。ラジオの音が聞こえる。
 もうラストオーダーの時間も過ぎているし、これ以上いるのは店の迷惑になってしまう。
 お会計をもらって店を出ようと思い立ち上がろうとした時、大将が厨房から出てきた。

「まだお腹に入りますか?」

 めずらしく話しかけられた。見ると、手に皿を持っている。

「つくね、ですか?」
「余らせるのももったいなくて。お客さん、つくね好きでしたよね。もちろんお代は入りませんから」
「いいんですか?」
「ついでに一杯付き合ってもらえませんか?」

 そうして焼き鳥屋の大将と乾杯をし、不思議な飲み会が始まった。

「いつもそうやって皆にサービスしていますよね」
 なんとなく、いつも思っていたこと聞いてみる。大将は笑った。
「お客さん全員にやってるわけじゃないですよ」
「そうだったんですね」
「うちのお客さん、一人一人の時間を過ごす方が多くいらっしゃる気がしていて。中には、これは何か抱えているなって方もね。そうすると、私も何かしたくなるんですよね。お客さんを選んでいるようで、あまりよくないとは思ってるんですが」
「なるほど」

 大将って意外と喋るんだなと思った。
「あ、でも、自分には何もないですよ」
「ん、何がです?」
「つくねをいただくようなものは何も持ってないです」
「いいんですよ。私のわがままですから」
 そう言いながら、髭の生えた顔で笑う。俺は学生みたいに、頭を抱えて泣き出すくらいの何かを持っていない。そんなになるまで、一生懸命過ごしていない。

「そういえばこのつくね、何か違いますね」
 いつも食べているものと一味変わっている気がして、聞いてみた。
「そうです。少し味を変えています。生卵は出せなかったもので」
「そういうことですか」
「お口に合えばいいのですが」
「うまいですよ。妻も好きそうな味です」
「あら、ご結婚されていたんですね」
「えぇ、まぁ」
「あ、いや、お客さん見た目がすごく若いので」
「全然気にしませんよ」
「こんな時間までいいんですか?」
「いいんです。今日は飲んでくるって言ってあるんで」
「そうですか。大丈夫ならいいんですが」
「いいんです」

 いいんです、しか出てこなかった。それ以上のことは言えない。いや、言いたくない。言いたくないけど、聞いてほしい気もする。

「妻もこの店好きなんです。たまに二人で来るんですけど」
「そうでしたか。すみません、ちっとも分からず」
「いえいえ。落ち着いた感じが二人とも気に入ってるんです」
「ありがとうございます」

 大将が普段あまり喋らない人だからか、不思議とこちらから話したくなる。この人から出てくる空気感みたいなものが店の雰囲気を作っているんだな、と思った。とても居心地がいい。見た目に反してと言ったら失礼だけど、大将はすごく感じのいい人だった。

「そういえば、少し面白いなと思った話がありまして」
 今度は大将から話題が出てくる。
「聞いた話なんですけどね」
 お客さんのことあまり言うのはよくないんですが、と前置きをして、
「いつも座敷に座っている二人組わかりますか?」
「いつもって、あぁ、なんとなくわかります」
「話していることがだいたい決まっているお二人で」
「はいはい。他に二人組はあまり見かけないので」
「そのお二人だと思います」
「話しているのって、あれですよね」
 この次の言葉は大将も同時に口を開いた。

「家族の愚痴やら仕事の愚痴やら今の日本がどうだとか」

 一言一句ぴったり一致した。
それが面白くて、大きく笑った。これも同時だった。静かだった店内に二人の声が響く。

「やばいっすね」
「やっぱり分かる方いるんですね」

 こんなに笑ったのはいつぶりだろう。大将は少し目に涙を浮かべていた。

「いやぁいいですね。それで、聞いた話って?」
「あぁ、そうそう」
 大将はグラスのビールを喉に流し込んだ。
「散々家族を愚痴った後に話していましたけどね」
「はい」
「結婚したら、男のプライドとか女のプライドとか関係なくなる。その代わりに夫婦のプライドが生まれるんですって」
「夫婦のプライド」
「はい。夫婦のプライドっていうのは、いい時悪い時、子供やら喧嘩やらどっちかが借金したとかあったとしても、絶対離れちゃいけない」
 大将は頭の中に書いてある文字を一つずつ読み上げるように、ぎこちなく話す。
「すみません。けっこううろ覚えです。でもたしか、子供の世話とか親の顔とか、世間がどうだじゃなくて、自分たち夫婦がどうあるかが大事なんだって話していたと思います。何があってもきちんと夫婦で向き合って、溝ができたらちゃんと埋めて、関係を作っていきましょうっていう話だったかと」
「なるほど……」
「実際はもっといい話だったのですが、記憶があいまいでした」
 そう言って残りのビールを飲み干した。
「面白いなって思ったところは、この話はその方の娘さんが結婚する時に話したことみたいで、最後は奥さんから酒飲みがうるせえって一蹴されたとかで、結局愚痴に戻ったことですね」
 大将はもっと喋るのがうまければなぁと悔やんでいるようだった。俺はグラスのお酒を飲み干して、つくねを一気に口に入れた。
「私ばっかり話しててすみません。普段はこんな感じです。ですが、焼き場にいる時はどうしても集中しちゃって。よく妻に言われますよ。あんたのは商売じゃない、鳥を焼いてるだけだって」

 店を出て、さっきまでの余韻と酔いを覚ますため、少しだけ遠回りをして家までの道を歩く。大将の雑な話を頭に浮かべながら、これからどうしようかを考えている。

 俺は今日、逃げるために店にやって来た。
 妻とは結婚してまだ半年も経っていない。こんなにも大切にしたい、生涯を共にしたいという気持ちになったのは今までなかった。妻も同じように思ってくれていたみたいで、三年の交際期間の末、籍を入れたのだ。
 これからの人生、何をするにも妻が隣にいる。そう思うだけで幸せに感じるのだが、それとは反対に途方もない気持ちにさせられる。結婚式、子供、マイホーム。そういう将来のことを話す度、自分の心がまだ追いついていないことを思い知らされる。収入も貯金もまだまだ少ない。何より未来からのプレッシャーに潰されそう。もう三十を超えた男のくせに、なんとも情けない。
 大将のあの話の後、俺は思わず今の気持ちをぽろぽろと漏らしてしまった。結婚を決めた時は俺にもあったはずの、いわゆる自分にあったはずの夫婦のプライドが、新婚である今からもう崩してしまいそうなこと。いっそ煙と一緒に消えたい。
 大将は俺のことを慰めるでも責めるでもなく、「もしかしたら奥さんも同じ気持ちかもしれません」と言った。あなた方二人のことを知っているわけではないので違うかもしれませんが、と。そりゃそうだ。

 ひとまず帰ろう。家に帰って今日のことを話そう。情けない自分を。もし妻も同じ気持ちでいるなら、一緒に背負いたい。自分だけだったら、逃げている場合じゃない。話した時の妻の反応が想像できないが、どんな反応でも受け止めよう。できれば、また二人で焼き鳥屋に行きたいな。
 そんな自分勝手な考えで、俺は逃げてきた道を逆にたどって行く。

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