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【小説】二人だけのつづきから

10,245文字/目安20分


 一.再会

 久しぶりは勇気がいるけど言い訳にもなる。
 今日あった取引先との商談で、たまたまそこに就職したそいつの話題になって、たまたまうちの会社の近くの支店で働いている話を聞いたっていう、本当にそれだけのことで、深い意味なんてない。なんとなく思い立ってのことだった。
 高校で一緒になって、たまたま大学も一緒になって、たまたま入ったサークルも一緒で、本当にそれだけのことで、仲はまぁ普通のクラスメイトっていう感じの距離感で、わりと絡みはあるけど別に普通に接していたかなっていう、そんな感じ。大学なんて四年も五年も前のことだし、最後は卒業式の時に話をしたくらいで、その後は一回も連絡を取っていない。それでもやっぱり、そいつがまだ同じ会社にいるってわかったのには少し驚いたし、そいつの活躍を聞けたってのもなんだか嬉しかった。だから本当にそれだけのことなんだけど、それで終わっても良かったんだけど、なんとなく思い立って、その日の夜に「今日お前のとこの担当の人と商談したけど、うちの会社のすぐ近くの支店にいるのな。ちょっとびっくりした。元気にしてるか?」と連絡を入れた。なぜか妙に緊張して、メールを送ったことも後悔したが、そんなに時間が経たないうちに「久しぶり、元気だよ。そっちは?」と、あっさりとした答えが返ってきた。
 それだけのことなのに、なぜか、妙にほっとした。

「しっかし、本っ当久しぶりだよねー。変わってないねー、ゆうちゃん」
 開口一番、亜沙美あさみはそう言った。その一言、その雰囲気で、あぁ、こいつも変わってないなと、そう思った。話し始めに「しかし」がくるあたりとか、なんとなく話し方にやれやれ感が出る感じとか、透き通っている中に芯がある声とか。スカッとしているというかあっけらかんとしているというか。当時の亜沙美が社会人っぽい格好をしているだけに思える。髪は肩に届くか届かないかくらいの茶髪。それも変わっていない。
「悠ちゃんでもちゃんとスーツ着るんだね。イメージないや」
 そういう亜沙美もちゃんとスーツだ。
「でも腕まくりしてたらシワになっちゃうでしょ。まぁ私もだけど。やっぱしちゃうよね。袖邪魔だし」
 しばらく会っていない奴とどんな話したらいいか少しくらい悩んでたらいいのに。お構いなしである。
 その点で言っても、なんだかほっとした。
 亜沙美に初めて会ったのは高校二年の春で、たまたま席が隣になったのが最初のきっかけだ。当時のこととか亜沙美の第一印象とかは正直あんまり記憶にない。一番古い記憶といえば、授業中に消しゴムを拾ってもらったことだと思う。なんの授業かはもう覚えてないが、うっかり机から消しゴムを落としてしまい、それが亜沙美の椅子の下に転がっていった。どうにか亜沙美に気づいてもらって、拾ってもらった。その時に、「消しゴムちっちゃ」と言われたことは今でも妙にはっきりと頭に残っている。なんとなく、俺はそれを「消しゴム事件」と名付けてたまに思い出す。
「四年ぶり? 五年ぶり? 大学卒業っていつだっけねぇ」
 そういう亜沙美はなんとなく嬉しそうに見えた。数年経ってお互い少し年を取っているが、当時に戻った感覚になる。
 連絡を入れた後に何回かやり取りをして、お互いの勤め先が近いということで、じゃあ久しぶりに飲みに行くか、ということになった。
 懐かしさと少しの安心感と、その他いろいろのあれやこれやを思いながら、適当な居酒屋に入った。店に着くまでは、本当に久しぶり、とか、元気してた? とか、そういうことばかり話していた。たいした話はまったくしていないが、そういうことだけで、今日会って良かったって思った。
 一杯目は絶対に生ビールなのもお互い変わらない。一口飲んで、二口飲んで、適当なつまみを注文して、適当な話をした。
「悠ちゃんは今どんな仕事してるの?」
「うーん、めちゃくちゃ説明しづらいんだけど、新規事業開発みたいなことやってる」
「へぇー、すごいじゃん」
「んなことない。亜沙美は?」
「んー、一応、支店長?」
「すげえじゃん」
「形だけだよ。形だけ」
「ふーん。順調?」
「うーん、まぁまぁかな」
 俺の感覚で言えば役職がついていたらけっこうすごいんじゃないかって思うけど、本人からしたらそうでもないのかもしれない。そういうもんかと思いながら、それから特に話を弾ませることなく、「ふーん」とだけ答えた。
「悠ちゃんこそ、順調?」
「え? まぁ、まぁまぁかな」
「なんだよ、他にないの?」
「別に。そんなもんだろ」
「まぁ、そうだよねー」
 何か話すことがあって会ったわけじゃない。連絡を取った流れの中で会うことになったから来ただけだ。本当にたいした話もせず、お互いにしばらく飲んでいた。
「それにしても、何年も経ってるわけじゃないのに、すごい懐かしいよね」
 ふと亜沙美がそう漏らした。
「覚えてる?」
 目の前の浅漬けをつつきながら、
「大学の時も、こうやって二人で飲んだの。まぁ、あの時は二人じゃない時のほうが多かったけど」
 よくサークルの何人かで飲みに行っていた。サークルの活動にはほとんど参加していなかったが、その中でもちょくちょく遊びに行ったりするメンバーがいて、そこにいつも亜沙美がいた。亜沙美とは学部が違ったし、学内では一緒に行動していたわけではなかった。
「正直、周りのノリについていけてなかったんだよね。大学デビューってやつ? なーんか苦手だったんだよね」
 それは俺も同じだった。
 亜沙美は早くも二杯目のドリンクを注文し、
「せっかく大学に通ってるのに、結局高校の時のメンバーで集まったりしてさ。あー、思い出したらすごく懐かしくなってきた。よく一緒にいたじゃん。私と悠ちゃんと、千尋ちひろ。あのおとなしい子。あとあいつ誰だっけ。名前忘れた。悠ちゃんとすごく仲良かった……」
 俺がその名前を口にしようとするのを「待った」と言って止めて、
「えっとねぇ、あー。だめだわからん」
 亜沙美は眉間にしわを寄せて、そこに手を当てて、もう片方の手で言うなと言わんばかりに俺の顔の前に突き出してくる。
「いやー、すごいもやもやする。『あ』で始まるのは知ってるんだよ。朝倉じゃないし」
 それ俺な。
「うわ、めっちゃど忘れ。ほら、あいつ。誰だっけ」
 それにしても長い。でもここで正解を言うとめちゃくちゃに怒るしかなり根に持つから素直に黙っておく。あいつもかわいそうに。
 ぶつぶつぶつぶつ何か言いながら、さもこれが重大なことのように一人でずっと考えている。ああ、あい、あう、と、五十音順にして思い出そうとしているようだが、三文字に一回は戻るから本当に長い。
「もうこの辺まで出てるのに。あさ、あし、あす……」
 芦田あしだな。芦田。
「そう、芦田だ! あーすっきりした。ほら!」
 そこまで言って、亜沙美は満足そうに続きのドリンクを口にした。なにが「ほら」なのかはさっぱりである。そのまま勢いで飲み干し、また追加で注文した。
「しかしまぁ悠ちゃん、お酒進んでないね。別に弱くないよね、お酒」
 自分のペースで飲むからいいんだよ。お前は少しペースが早いんじゃないか。
「だって久しぶりに会ったんだし。いいじゃんたまには」
 そう言って亜沙美はけらけら笑う。
「そういえば、この店は肉どうふがおいしいから後で頼も」
 こいつはよく喋る。こちらが喋ろうが黙ろうが関係なしに、一人で賑やかにしている。おかげで退屈はしないのだけど。おそらく頭で考えるよりも先に口から出てくるタイプだ。芦田だって名前を思い出してそれっきりほったらかしである。あぁ、こいつはそういう奴だったなと思い出して、久しぶりに亜沙美と会っているんだと、つくづく感じた。
「なにちょっとにやっとしてんの? 気持ち悪」
「うるさいな」
 亜沙美だってずっとにやっとしている。

 二.思い出話

 俺らは記憶をたどるように、思い出話に一つ一つ花を咲かせていく。
 俺と亜沙美と千尋と、あと芦田。この四人でよく一緒にいた。全員見事に大学入学時の友だちづくりに失敗し、結局高校が同じだった四人で行動するという、なかなかに残念な奴らである。
 一度、そのメンバーで旅行に行ったことがあった。
 ペンションを借りて、バーベキューやらアクティビティやらを予定していたが、当日はあいにくの雨。というかほぼ嵐。宿に行くまではよかったが、他の予定がすべて潰れるというよくあるやつだ。
「その時芦田がキレてさ、大変だったじゃない。まぁ予定組んだりしてくれたのがあいつだったから無理ないけど。そしたらなぜか千尋がこれでもかってくらい謝ってて、今思えば面白いよね」
「いや、あれはまじで大変だったぞ。芦田は全然収まらないし、千尋も千尋で手がつけられないし」
「むしろ千尋のほうが大変だったよね。なんであんなに謝ってたんだろう」
「もしもの時のために他の予定も考えておけばよかったって。芦田一人に任せちゃってたから、とかなんとか」
「ふーん」
 亜沙美は残りのグラスの中身を一気に飲み干すと、
「なんかめんどくさいね」
 言ってやるなよ。
「まぁ、私も完全に芦田に任せっきりだったしね。悠ちゃんもだけど」
「一番張り切ってたのあいつだしな。言い出したのは亜沙美だけど」
「あれ、私じゃないよ。千尋」
「あれ、そうなのか?」
「そうそう、千尋が最初に四人で旅行とか行きたいねって言い始めて、それで私が乗っかったんだよ」
「そうだっけ」
「うん、おいしいもの食べて温泉入りたいって。そしたら芦田が『じゃあ俺が計画立てるわ』って」
「よく覚えてんな」
「そりゃね。ある意味大学で一番記憶に残ってることだもん。あ、すいませーん!」
 ガヤガヤと賑わう店内で、遠くにいる店員に見事声を届かせた。
「レモンサワーと、あと肉どうふください」
 もう肉どうふを頼んでいる。レモンサワーと肉どうふ。
 それにしても飲むペースが早い。
「亜沙美ってそんな飲むタイプだったか?」
「いいじゃん。久しぶりなんだし」
 それしか言わない。
「しかしでも一番びっくりしたのは、あの晩の次の日千尋と芦田がいつのまにか付き合ってたってことだよね。朝起きたらカップルなんだよ。私言っちゃったもん。そんなことある? って」
 確かに言ってたな。
 亜沙美は運ばれて来たレモンサワーを受け取ってそのまま口に運んだ。
「私、千尋に問い詰めてやろうと思って聞いたもんね。だってあんな雰囲気で終わった夜が明けたら付き合ってんだよ? どういうこと? ってさ。そしたら千尋なんて言ったと思う?」
 亜沙美の声の調子がどんどん上がっていく。声のボリュームも。
「えへへ。だって。なんだよそれ! 本っ当そんなことある?」
 そう言ってきゅうりの浅漬けを3枚ほど口に放り込むと、それをレモンサワーで流し込んでいた。さっきからいい飲みっぷりである。
「あー、でも楽しかった。そりゃ記憶にも残るよね」
 一番記憶に残ってるのは俺も同じだ。ただ、亜沙美とはまた違った意味だと思う。俺にとってはあまり思い出したくない、というか、思い出すとなんだか少し苦味が広がる、というか。
「でもね、ほとんどなにもできなかったじゃん、あの旅行。ペンションに着いた時は中を歩き回ったりしてみたけど、すぐやることなくなってダラダラしてさ。幸いバーベキューの材料を買ってあったし、お酒もあったし。悠ちゃんがやけに料理が上手だからいろいろ作ってくれて。と言っても肉と野菜しかなかったけどね。食べたり飲んだり、そうこうしてたら芦田がキレて、千尋もどうしようもなくなって、二人とも部屋に行っちゃったじゃん。あぁ、じゃあその時じゃんね。付き合うとしたら。でもどういう流れだよ」
 レモンサワーを一口。
「でもね、あの旅行で一番楽しかったのって、あの後だよ」
 あの後。
「あの二人を追いかけてってのもできたけど、それよりも飲み直そうって、悠ちゃんと私でダイニングに残ったじゃない」
 心臓がピクリとした。
「日付超えてもずっと話してたじゃん。なに話したかはほとんど思い出せないけど、あの時すごく楽しかったのは覚えてる」
 それ以上はそっとしておいてほしい。なんでもないように話されると余計に来る。急に丸腰になった気分だ。悟られまいと俺もジョッキの残りを飲み干した。
 ちょうどそのタイミングで、肉どうふが運ばれて来た。ついでに二人とも追加のレモンサワーを注文する。なんだか助けられた。
「これこれ。本当おいしいんだよね。悠ちゃんも食べなよ」
 いつもなら絶対やらないのにめずらしく亜沙美は小皿に取り分け、俺に差し出す。それを黙って受け取った。
「肉ととうふを一緒に食べてみて」
 言われた通りに一口。
「あ、うまい」
「でしょ!」
 甘味が絡んだ肉が口の中でほろほろと広がり、とうふにも味がしっかり染みこんでいる。
「これは酒が進むな」
「そうでしょ」
 亜沙美は目を細くして笑った。俺もそれにつられる。
 しばらくの間、二人でうまいうまい言いながら肉どうふを食べていた。うまいね。うん、うまい。このお店の肉どうふ本当好きなんだよね。ていうか、昔から言ってるよな、肉どうふ。まぁね。あとレモンサワーも。好きなんだよねぇ。でも、肉どうふ置いてるところなかなかないんだよね。それも昔から言ってたな。言ってたね。置いてないと絶対一人で文句言ってた。それはないほうが悪い。あっても文句言ってたけどな。だっておいしくないんだもん。肉どうふだけにはうるさい奴だった。別にそこまでじゃないよ。芦田に自分で作れって言われてたな。それはまた違うじゃん。そういうのはお店で食べてこそなんだよ。言ってたな。ここのは本当においしい。よかったな、近場にあって。本当、よかったよ。

 三.思う

「そういえば、悠ちゃんっていつからこっちいるの?」
 亜沙美がそう切り出したのは、テーブルの食器がほとんど片づけられた時だった。グラスに水滴のついたレモンサワー二つだけが上に乗っている。
「就職して、確か西の方に行ってたよね。どこだっけ、大阪だっけ?」
「いや、兵庫」
「そっかそっか」
「こっちきたのは去年……いや、もっと前か」
「ふーん。ずいぶんな異動だね」
「いや、転職だよ」
「え、そうなんだ」
 亜沙美の目がまるくなった。
 新卒で入ったものの、最初から思ってたの違うと感じていた。仕事が思ってたのと違うならまだよかったが、その場所にどうしても馴染めなかった。自分もちゃんとした考えがあったわけではないが、空気とか、周りの考え方とか、ノリとか、すべてなにかが違う。別に仕事自体つまらないとか、嫌な奴がいるとかそういうわけではない。なんというか、ここに居続けてもこの先おもしろくならない。そう思って辞めた。
 辞めた後はたまたま縁があって入ったベンチャー会社で、どうにかこうにかやっている。
「へぇー、そうなんだぁ」
 亜沙美はなにかを噛み締めるように小さく言った。ジョッキを両手で持って、中の氷をカシャカシャ揺らしている。
「亜沙美はどうなんだよ」
「私は……」
 しばらく間があいて、
「どうしようかな」
 顔は笑っていたが、声はまるで楽しそうには聞こえない。
「なんか不満げだな」
「そういうわけじゃないよ。でもねぇ……」
 どうにも煮え切らない。亜沙美はカバンからティッシュを取り出し、水滴で濡れたジョッキやテーブルを拭く。おそらく意味はない。俺もなんとなく手持ち無沙汰で、レモンサワーを少し口に含んだ。視線を亜沙美に向けたり、手元に向けたり。そういうことをしながら、亜沙美の次の言葉を黙って待った。
 またしばらく間があいて、亜沙美はレモンサワーを飲み干すと、
「なんてね。ごめんね、急に。今日はいつもより忙しかったからさ。悠ちゃん次なに飲む? レモンサワーでいい? あと私もうちょっとなんか食べていい?」
 そりゃ言いたくないことの一つ二つあるのは大したことじゃないが、亜沙美にしてはめずらしい。思っていることをわりとはっきりと言うタイプのイメージだ。なにか迷っている。少し気になるが、まぁ、本人が話したくないならわざわざ聞き出すこともない。それにしてもめずらしい、気がする。
 そういう風に考えているのが顔に出ていたのか、亜沙美は「あはは」と笑う。
「なんだよー。大丈夫だって。今は自分のあれこれを話すより久しぶりに会った人との時間を楽しみたいのよ。店員さん呼ぶよ」
 そうやって亜沙美は強引に話を終わらせた。まぁ、無理につついても仕方がない。亜沙美のことだ、言いたくなったら勝手に喋り始めるだろう。
 久しぶりに会った人との時間を楽しみたい。その言葉は少し嬉しかった。
 楽しいなぁ。亜沙美がそうつぶやくのが聞こえてくる。
 もういい感じに食べたし飲んだ。お酒もまわってきている。亜沙美なんかレモンサワーだけで何倍飲んだかわからない。そのくせずいぶんケロッとしているように見える。
「あ、ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね。レモンサワーとだし巻き、お願いしていい?」
「はいよ」
 亜沙美は立ち上がり、歩いていった。後ろ姿も亜沙美だな、なんてのんきなことを思って見ていると、微妙にまっすぐ歩いていない。表に出ないだけで、けっこう酔っているんじゃないか。

 俺は「ふぅ」と、肺にためた空気を一気に吐き出した。
 久しぶりに会った亜沙美は当時の記憶のまま。変わったことと言えばスーツを着て腕まくりをしていることくらいで、大学時代の続きをやっているような感覚になる。日頃は大して気にも留めないようなことも、鮮明な記憶として頭に浮かんでくる。これが懐かしいってことか。高校三年で四人全員同じクラスになったこと。志望校がみんなそれぞれ違ったのに、結局同じ大学になったこと。それを入学してしばらく経つまで気がつかなかったこと。亜沙美とは適当に決めて入ったサークルで開かれた飲み会の隅っこの席で、本当にたまたま再開した。
 普通のクラスメイトみたいな距離感なんて大嘘だ。
 時間さえあれば集まって過ごしていたし、ことあるごとに誰かしらの家に行っては朝まで飲んだりした。もちろん他に知り合いがいないわけではないが、圧倒的に四人でいる時間のほうが長かった。その中でも亜沙美とは二人でいることが多かったと思う。
 今にして思えばなんで大学卒業以来連絡を取らなかったのか。なんであれっきりにしてしまったのか。なんとなく。それだけでは片づかない。
 要するに亜沙美のことが好きだった。
 それだけのことなのに、なんで無視し続けたんだろう。大学時代の続きをやっているんじゃなくて、俺があの日から止まったままなだけだ。懐かしいなんて言って、自分をごまかそうとしているだけだ。

 四.つづき

 レモンサワーとだし巻き卵が運ばれて来たのを受け取って、また一つため息をついた。
 首をまわしたり、座り直したりしていると、亜沙美が戻ってきた。座るなり、「ふぅ」と、深めのため息をつく。
「時間って、過ぎるのはあっという間だけど、全然あっという間じゃないよね」
 神妙な面持ちでそんなことを言い始める。
「どう思う?」
「どう思うってなんだよ」
「悠ちゃんと過ごしたのは大学の時で、今なんかもう二十代も後半じゃん。すごくあっという間だなぁって思うわけ。でも、ほんの五年くらいだけど、それを一つ一つ丁寧に思い返すと、ちゃんと五年分のことがあるんだよ。いい時もあったし悪い時もあった。一つ一つちゃんと思い出していくと、五年って本当に長いんだよ」
 言いたいことは分かる気がする。
「今日は本当に楽しい。悠ちゃんと会って話して思ったんだけどさ、その五年間、もっといいものにできたんじゃないかって」
 亜沙美はレモンサワーにもだし巻き卵にも手をつけない。
「もちろん今までなんとなく過ごしていたわけじゃないよ。将来のこととか自分なりに考えたりするし、こうなったらいいなって思うこともあったりするんだよ。でも、結局のところこの先がどうなるかなんてわからないし。今のままでいいのかなーとか、やっぱりあの時の選択って間違っていたんじゃいないか、とか、考えちゃうんだよね。そもそも自分で選んでいるようで全然選べてなくて、そのまま通り過ぎちゃってるんじゃないか、とか。なんかあれこれ考えちゃって」
 亜沙美の言葉はどんどんひとりごとのようになっていった。喋るというよりは漏れるが正しい。
 俺はひたすら聞き続けた。
「もしね。もし、自分の本当の気持ちが、心から思っていることが、はっきりと文字になって見ることができたら、ちゃんと正しい選択ができたのかな」
 亜沙美から溢れるひとりごとは、俺に言っているかのようだ。そのくらい俺にも刺さる言葉だった。深くまで刺さって動けない。
 亜沙美の視線は俺の方を向いていたが、今見ているのは目の前の俺ではなく、どこか遠くのなにかということは感じられた。
「ねぇ、あの時のことだけどさ」
 亜沙美の言うあの時が、旅行の夜のことだとすぐにわかった。
「悠ちゃん、ぽろっと言ったじゃない。普段そういうこと言わないのに。めずらしいから、それだけははっきり覚えているんだけど、この時間がずっと続けばいいよなって、言ってくれたじゃない。それってさ――」
 亜沙美は言いかけて、「いや、違うな」とすぐにやめた。なにを言おうとしているかまではわからないが、どんな言葉でも驚かないくらいの心づもりにはなった。
「ねぇ、私が言ったことは覚えてる?」
 ちゃんと覚えている。声のトーンまではっきりと。その時の亜沙美の顔も。雨の音も。

『もうすぐ終わっちゃうね。この旅行も。大学生活も』

「なんであんなこと言っちゃったんだろうね。私ね、あの二人が付き合い始めたって聞いた時、嬉しい反面かなりショックだったんだよね」
 そして「酔った勢いで聞いちゃうんだけどさ」と前置きをして、言葉を続けた。
「あの時、私たちが付き合うってことは、ありえたかなぁ」
 俺はなにも言えなかった。
 亜沙美はそのまま黙ってしまった。沈黙が続く。がやがやとした店の中で、ここだけが静かだった。レモンサワーはグラスに残っていたが、飲む気にはならなかった。
 ありえたかなんて、そんなの当たり前だ。
 俺はその時亜沙美に気持ちを伝えようとしていた。でも、亜沙美から出てきた「終わり」の一言が、俺を止めてしまった。
 その理由は、なんとなくでは片づけられない。
 ああだからこうだから。思いつく理由なんて全部あってるし全部間違っている。
 先のことを考えているようで、今しか見えていなかったわけだ。大学を卒業したら違う会社に進む。違う場所に住む。お互い今までの環境からガラッと変わる。俺と亜沙美はこの先別々の道を行くんだって、それしか考えられなかった。そういうことを必死で自分に言い聞かせた。
 いや、そうじゃない。続きが言えなかった、それだけのことだ。

 店を出る時も沈黙は続いた。お互いになにも言わないままの時間が過ぎる。
 駅までの道は飲食街になっている。似たような男女の二人組や、友達の集まりみたいなグループ。円になるサラリーマンの集団。入り口の席で大声を出して飲んでいる客たち。道端で缶チューハイを片手に座る人。シャッターが閉まる店。一本締めの音。二軒目を呼びかける声。それらを避けて歩いていく。俺が前で亜沙美は少し後ろ。
 亜沙美の家はどこなんだろう。俺もだいぶ酒がまわったな。そんなことを考えながら、重い足を引きずるように駅に近づいていく。
 ふと亜沙美を見ると、やっぱりふらふらとした足取りだ。「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫」と返ってくる。
「悠ちゃんは帰り電車?」
「そう」
「そっか」
 亜沙美は下を向いたままだった。
 言いたいけど言いたくない。言えるか言えないか。言おうか言わずにいるか。そんな気持ちがぐるぐるとし始める。このまま亜沙美と別れたら、一生会うことはなくなるだろう。なんとなくそんな予感がした。
 言いたいのに言えない。言えないけど言いたい。まだ帰りたくない。終わりにしたくない。
「あのさ」
 俺は立ち止まって、亜沙美の方を見た。亜沙美もこちらを向き、目だけで「なに?」と聞いてくる。あとはもう酔った勢いだ。
「あの時の続きって、今でも間に合う?」
 意識が飛ぶかと思うくらいに、自分の言葉で鼓動が大きくなる。亜沙美は少しの間固まっていたが、すぐに驚いたような表情に変わり、頬が緩んだと思ったら口をつぐんで顔を伏せ、またこちらを向いた。
「ねぇ!」
 さっきまで静かだったのが嘘みたいに、表情がパッと明るい。声も大きい。
「まだ時間あるよね? ちょっと行きたいお店あるんだ。バーなんだけど、よく仕事が終わった後に寄るところ。すごくおいしいお酒があるの。たぶん悠ちゃんも気にいるよ」
「バー?」
「そう。まぁここから少しだけ歩くけどね。別にいいよね。なんなら電車なんか気にしなくていいよ。うちこのあたりだしね。悠ちゃんも明日休みでしょ?」
 亜沙美は人の話を聞かなくなった。俺が聞き入れようが拒もうがどっちでもいいと言わんばかりの素振りだ。俺は「なんだよ」と文句を言ってやりながらも、足も心も軽くなった気分でいる。四年も五年もかかって、俺たちはようやく戻ってきたのだろう。続きはもう、なりゆきに任せたらいい。
「行こう」
 亜沙美が前で俺は少し後ろ。駅とは逆方向に歩き出した。



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