見出し画像

英国を救った友情の物語 ――『英国王のスピーチ』を観て。【感想文】

映画を見る授業がありました。(雑な説明)
生徒達のやる気は皆無のように感じてましたが(9割が睡眠タイムだった)
結構自分は好きでした。ただ、先生のチョイスする映画に当たり外れが多かったように思います。
でも、嫌いじゃなかった。
よく眠れる授業でした。先生、ごめんなさい。
レポートで出した感想文です。
当時注目されてた映画。今見たらまた違う感想が生まれるのかな。



 重度の吃音に悩まされたイギリス王ジョージ6世と、その治療にあたった植民地出身の平民である言語療法士の友情を史実を基に描いたこの作品が生まれた背景には、脚本家であるデイヴィッド・サイドラーの苦悩や努力が詰まっていると言える。ロンドンに生まれ、上層中流階級のユダヤ系であった彼自身もまた、吃音症を患っていたのだ。三〇年以上もこの映画の企画(アイデア)を温めていた彼がこの脚本を書いたきっかけは、彼の両親の言葉であった。ジョージ6世の戦時中のスピーチを聞いた時、両親は「貴方(デイヴィッド)よりもっと酷い吃音だった王がこんなに素晴らしいスピーチをすることが出来る。」だから貴方も出来るはずだ、とそう両親は彼を激励したのだ。吃音を患いながらも、英国民に勇気を与えた数々のスピーチを行ったジョージ6世は、デイビッドにとって尊敬に値する、ヒーローのような存在であったのだ。そのヒーローについて作品を描きたいと感じたのは、デイビッドにとって偶然ではなく必然のことだったのだろう。彼は1970年代頃からジョージ6世について調べ始めるようになる。そこでジョージ6世を献身的に支え、吃音を治療したとされる言語療法士のライオネル・ローグという人物に行きつく。しかしライオネルに関する記録はほとんど手に入らず、ライオネルの息子バレンタインが保有していた治療記録は、ジョージ6世王妃クイーン・マザー(エリザベス)から存命中の公表を拒まれたため、デイヴィッドが脚本を書き始めるまでには長い時間が必要であった。クイーン・マザーが2002年に101歳で死去すると、デイビッドは作業を再開した。
 デイビッドのヒーローであった、ジョージ6世は、非常に寛大で、優秀な王であったが、幼少期に、後に吃音に悩まされる原因となった数々のしつけ(トラウマ、といっても良いかもしれない)をされていたことが判明した。
映画の中でも、友情を育み始めたバーティ(ジョージ6世)とライオネルが酒を交わしながら幼少期のことを語るシーンが存在する。そこでも分かることだが、ジョージ5世の次男であったバーティは、左利きとX脚を矯正させられていた。ジョージ5世は息子に体罰を与える厳しい父親であり(当時のしつけであったのだが)、バーティは尊敬と畏怖の念を父親に向けていた。そんな父親に逆らうことはしない、非常に内気で、控えめで、謙虚、そして優しい性格のバーティは、そんな幼少期の体験から吃音を発症してしまっていたのだ。ライオネルは吃音の原因が心理的なものであると見抜き、共に過ごしながら治療をしていたことも、デイビッドの熱心な調査のうちに判明した。
 そしてその事前調査の結果は映画の中で発揮されることとなる。
 まずジョージ6世が、そしてそれを支える妻をはじめ周囲の人間たちがどれほど吃音に悩まされたかが分かるシーンが冒頭から窺える。
 一番最初のラジオマイクのアップは最初は意味が分からなかったが、次のバーティの不安そうな、恐ろしいものを見たような表情から、吃音である彼が最も恐怖だと感じる“話すこと”を象徴するマイクは彼にとってはモンスターのようなものであるのだ。だから最初にマイクをアップで写し、バーティにとっての恐怖の対象を表現したのだろう。
 バーティがアナウンサーに代わりスピーチを始めた瞬間、バーティを含むその場にいた人、そして聴衆たちも非常に緊張していたのだが、王妃と司祭が一瞬目を伏せるシーンがある。まるで、『あぁ、やっぱりだめだったか』と言ってるような、そんな表情である。口では、言葉では応援しているものの、目は口程に物を言う。失望や哀しみ、少しの情けなさも感じるのは間違いないのだろう。バーティの哀愁だけではなく、周りの人間たちのちょっとした視線の彷徨わせ方で、彼等もバーティの吃音に悩まされていることが分かる演出になっている。
 スピーチが終わり、ロンドンの街を行く人々、そしてバーティ等が乗った車が移動するシーンになる。霧の町と謳われるロンドン。怪しい雰囲気が非常に感じられ、行き先が見えない道を進んでいく人々をみると、バーティ、そして英国の未来の不透明さを表しているように思える。
 次に、バーティと妻がライオネルの元を訪ねるシーン。狭い狭いエレベーターに文句を言いながら身体を押し込めている彼の様子はまるで、八方塞がりなバーティを取り巻く環境を表しているように思える。こういった小さなシーンの映し方でも、バーティの苦悩が伝わってくる。
 そんな苦悩を取り除こうと奮闘する言語療法士のライオネルだが、やはり最初はバーティに戸惑っている様子が見られ(初めて会い、握手を交わすシーンなど。言葉にキレがない。)、非常に可愛らしい。しかし、自分の部屋にバーティを招き、二人で話しはじめるシーン。やはりライオネルの自分のテリトリーだからか、ライオネルのペールでどんどんと話が進められていくのを見ると、ライオネルの明るさ、剽軽さ、そして遠慮のなさ、など、彼の性格が見えてきて、バーティとの性格の対照が面白い。はじめて「バーティ」と呼ばれた時の顔の強張りから、ライオネルへの不信感が非常に伝わる。ライオネルは王であっても対等の立場で治療をしたいと思っているのだが、これまた対照的に、バーティにはプライドや不信感しか存在していない。こういった精神的なもの以外にも、バーティがいる後ろの壁の柄はモザイクのような柄(ブランクな壁)であるのに、ライオネルの背景は家具や暖炉などが映し出され、やはりバーティと対照的に見える。また、バーティの後ろのブランクな壁は、彼、そして英国のはっきりしない、行き先の不明瞭さも表していると思う。
 二回目のスピーチの場面であるが、父であるジョージ5世が非常に威圧的に感じられる。それは、父は常に立っている状態で、バーティは椅子に座っている構図のせいでもあるだろう。父がバーティを見下げて怒鳴るところからも、ジョージ5世が非常に厳格であることも、それに怯えて育ってきた(そしてそれが吃音の原因になった。)ことが窺える。
 その後、ライオネルの治療(練習?)を開始する二人のシーン。二人をうつし、ソファのアップ・引き、次の練習方法を試しているカットの繰り返しが続く。その合間、本番(国民の前でのスピーチ)のシーンが挟まる。バーティが努力している様子、妻が支えている様子、ライオネルの熱心さが分かる。さらにその練習方法がコメディタッチで描かれている。(国王を床に転がしたり、Fワードを連発させたり、煙草を奪ったり、など、遠慮がない。)
 ジョージ5世から王を受け継いだ後、ライオネルの元を訪ねるシーンでは、二人がようやく一つの画面に映っている。それまでは一人一人のカットが多かったのだが、ここでは一つの画面に、二人がおさまっている。ここでバーティは幼少期のトラウマをライオネルに語るのだが、二人の距離が縮んだことが視覚的にも分かる。
 いつの間にかすぐ横を歩く存在になっているバーティとライオネル。せっかく縮んだ距離であったが、言い合いになってしまう。その喧嘩のシーンは二人の後ろ姿で表現されている。表情をうつさないことで、よりバーティの怒りが背中の動きなどでも分かるし、非常の効果的だと感じた。言い合いの途中、ライオネルは徐々に足を止め、立ち止まってしまう。バーティだけが霧の町の中へ進んでいく。ここでもまたバーティの不安や行き先の不透明さを霧が表現していると思う。
 バーティの戴冠の式前のシーン。バーティの後ろ姿が映ったまま、彼は弱音を吐き続ける。そして怒る。そして振り返ると、ライオネルは椅子に勝手に座ってる。バーティの怒りが最高潮に達し、ライオネルは心の治療の大事さをバーティに説く。ようやく二人は対等な立場で物を言い合えるようになったのだ。それから二人の表情には笑みが浮かぶことが多くなり、同じ画面におさまっていること、そして風景が明るくはっきり映し出されるところからも、バーティがこれまでの悩みから少しずつ解放され、それをライオネルが助けていることが表現されている。
 最後のスピーチは、バーティの目線で撮られている。バーティから見えるマイク、そしてライオネルの表情が映され、観ているこちらもこれからスピーチをする人間になったかのように、バーティと重なるように撮られている。バーティの緊張や、ライオネルの存在の大きさがこちらに非常に伝わってくるカメラの位置である。
 最後のスピーチが無事に終わった後、祝福されるバーティをずっと後ろから見守るライオネルの表情に何とも言えない優しさや満足げが伝わり、観ているこちらもようやくホッと息がつけたように感じた。
 カメラの位置や、霧(ロンドンならでは)や壁の柄などをうまく使って、バーティの不安や吃音の悩み、そしてそれを救い出そうとするライオネルの奮闘も同時に表現されていて、非常に優れた作品だと感じた。
 また、自分がこの映画を非常に好ましいと思った理由は、こういった表現の仕方だけではなく、俳優コリン・フォースの吃音の演技に感服したからだ。
 私事ではあるが、専攻しているーーーーーの芝居で、『カッコーの巣の上で』を演じたことがあった。本番では自分はハーディング役を務めたのだが、先生の指示で読み合わせの段階ではビリーという吃音症の役をやらせていただいたことがあったのだ。そのとき、どもり(吃音)の演技がどれほど難しいかを知り、(もちろん自分とコリン・フォースの演技を比べる時点で失礼な事であるのだが、)それを非常にリアルに再現していたコリン・フォースは本当に優秀な俳優であると思った。本当に感激した。
 この作品はそんな素晴らしい役者陣と、脚本家、スタッフたちの熱心な思いが詰まった、英国の軌跡を語った後世に名を残す作品の一つであるだろう。




・参考文献・資料
『英国王のスピーチ 王室を救った男の記録 』 マーク・ローグ、ピーター・コンラディ著 安達まみ訳  岩波書店  2012.6

映画 『カッコーの巣の上で』








素敵なサムネイル画像、お借りしました。
https://www.pixiv.net/artworks/35481405

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?