コーチングとカウンセリング③~陰陽の視点から
コーチングとカウンセリングは地続きだった
コーチングスクールのベーシックコースを終えて思うこと
ラッセルコーチングカレッジカレッジのベーシックコース、コーチングのはじめの第一歩を先週修了いたしました。
その修了後の感想を、前回文章にまとめようとしたのですが、まったくまとまらずに持ち越してしまいました。
陰陽の視点から~と副題をつけたように、東洋医学の身体療法家の観点から心理療法としてのコーチングとカウンセリングはどんな風にみえるのか?です。
世間一般において、コーチングは心理療法と思われているのでしょうか?
全然わかっていない門外漢の極私的私見ですが、わたしは、入門するまで、コーチングは心理療法と思っていませんでした。
コーチングが語られる文脈では、よくビジネスがセットになっていて、ベンチャー起業家や、マネジメント層など、ビジネス上において大きな成長を目指す人たちのものというイメージでした。
目に見える成果を目指すという点で、陽の世界のものだと思っていたのです。
不安や葛藤、トラウマというようなことはカウンセリングで扱うもので、カウンセリングは東洋的なものの観方と親和性の高い、目に見えないものをみえないままに扱う陰の要素の強いもの。
わたしは、コーチングは今まで受けたことはありませんでした。
一方で、カウンセリングについては、クライアントとして継続的に受けてきたもの、単発でうけたもの、自分自身が学んできたものを合わせると、像を結ぶ程度のものはありました。
心理療法としての枠も限界も、可能性もある程度知っていました。
だからこそ、何年か前、もしかしたら何十年か前の心理療法はこんなもの・・という先入観、思いこみのなかにいたと思います。
そして自分自身の臨床でであう患者さんに指圧や鍼灸という身体療法を施術する上で、心理療法にも精通している必要があると常々痛感しているときに、その心理療法にコーチングは含まれていませんでした。
今回のスクール入門にあたっては、コーチングが自分自身のビジネス上の悩みを解消するステップになればいいなぁぐらいに思っていました。
でも、入門コースを終えた今はこう思っています。
ウェルビーイングコーチングは心理療法である
もともと代表のありさんが、公認心理師であり、弁護士になられてからこころの学びを深めたくて、各種心理療法を勉強しつくしたうえで、ウェルビーイングコーチングというものに辿り着いて開学されたことは、ホームページを読んで知っていました。
たぶん、だから入学申し込みをしたのだと思います。
申し込みをした12月は、父母の危機的状況のなかで、学ぶ楽しみを味わう暇もなく、いつもの私なら熟読しているはずの事前テキストも事前動画も、ほったらかしで、1月に講座がスタートしたときの初日は、「…で、なんでしたっけ?」状態で、どうして講座に申し込んだのかもよく覚えてない状態でした。
でも、学びはじめてすぐ思いました。
ウェルビーイングコーチングは心理療法であると。
それも今わたしが、自分自身のこれからを考える上でも、自分自身がこれから関わっていく人たちに提供したいという意味でも、まさしく学びたかった心理療法であると。
他のコーチングスクールのことを知らないので、わたしはラッセルウェルビーイングコーチングカレッジで学ぶコーチングについてしか語れませんが、それはとても大きな特徴だし、こういった学びを渇望している人は、もっともっといらっしゃるんじゃないかと思います。
ウェルビーイングコーチングは心理療法だと決定的に思った、プログラムのワーク中に私におこった極私的な事柄を記しておこうと思います。
軽いワークだったのに涙がとまらない
ウェルビーイングコーチングプログラムは、完全にオンラインで実施されます。日本各地の受講生が、zoomでつながり、ありさんの講義はメインセッションにおいて全員で、様々に盛り込まれるワークはセッションの小部屋で、2,3名で行われます。
コロナ以降、いろいろなオンラインスクールでの学びを経験してきましたが、能動的にワークに取り組むスタイルはあまり経験がありません。
オンライン飲み会とかも苦手なので、たぶんオンラインカウンセリングとかにも食指が動かないタイプです。
あくまでも、コーチングというメソッド、テクニックを学ぶのに、オンラインは便利だなぁくらいの感慨で、ワークに参加していました。
その日は『第4講座 自己理解とリフレクションーわたしのウェルビーイングを知る』というテーマでした。
事前動画で、自己基盤という概念を学び、チェックシートを記入してみて、自分自身の自己基盤がかなり安定しているのをへぇ~と思いながら学習していました。
改めて問われてみると、今のわたしは、自分自身にも環境にも結構満足しているようです。
30代のとき、心理学の色々なワークショップに参加したり、カウンセリングを受けていたときの私は、自己評価が低く、自責感も強く、そこが課題だとずっと思っていたのを忘れていました(笑)
さかのぼるに、大学の学部の卒業論文は、『両親の養育態度とこどもの自己評価』でした。
自分自身の自己評価の低さを、両親の養育態度と結びつけて考えていたからだと思います。
わたしの10代から30代は、自己評価が低く、自己基盤のグラフにするとほぼほぼ0点の小さな小さな五角形になっていたはずですが、50代のいま、ほぼ満点に近い五角形です。
ワークでは、その結果ををバディを組んだ方とシェアしながら、年をとって厚かましくなったのかなぁ?けど、まぁ楽ちんになってるんだから、それはそれでいいか・・・なんて話していたのです。
そのあとのワークでした。
褒められなくてもやりますか?という問い。
パーソナルバリューとニーズを知る
ニーズとは他人軸であり、承認をえるためや褒められるための行動。
ニーズだけに基づく行動は評価に依存することになり、評価されないと徒労感を生むことになる・・。
一方でパーソナルバリューとは、自分軸であり、本質的なPURPOSE・喜びに基づくものであるので、評価に依存することなく、達成までの努力過程が成長であり喜びであるというもの。
そして、自分のパーソナルバリューにアプローチするワークで、さまざまに並んだワードの中から、気になる言葉を10個選び、更に1個選びました。
そのときに私が選んだワードは『他者を喜ばせる』でした。
そのワークの前に、ありさんのイントロダクションがあり、ありさんご自身は『贈り物をもらう』だったこと、そして、ご自身の子ども時代の親からのプレゼントはいつも欲しくないものだった・・というようなお話をされました。
「あまり褒められた記憶がなくて、いつも欲しくないもの…辞書だったりとか…をプレゼントされて…」というお話をさりげなくされました。
そのエピソードがなぜかとても心に残りました。
映像として、辞書をもらって浮かない気持ちながら、さびしく作り笑いをしている少女が浮かんでいました。
そして続くワークで、バディを組んだ方と、自分が選んだワードをシェアしたのですが、なにかとめどなく色々な気持ちが湧いてきて、涙がとまらなくなって、しゃくりあげながら喋っていました。
いや、そんなワークではないんです。
自分の価値観をあぶりだし、世界観を描出するというような、未来を描くためのワークです。
そのときのバディを組んでくださった方は、私よりずっと若い女性で、理知的で賢明な、お仕事でもきっと有能であろうことが想像できるような方で、たぶんおばさんが急にしゃくりあげて泣くので戸惑われたと思うのですが、温かくしっかりと受け止めて下さいました。
その時にじぶんに湧き上がっていたのは、「わたしはいつも、母を喜ばせたいと思っていたんだ」ということでした。
わたしは一人っ子ですが、両親の仲が悪く、いつも母親の味方として存在していました。
律義で真面目な母親が立てた人生計画を、父親がいつも台無しにしてしまう・・という構図があり、いつも母親は不機嫌で不幸そうでした。
そんな不遇な専業主婦であった母は、娘の私の教育にとても熱心で、わたしもその期待に応えるべく、優等生、模範生で小中学生は通したのですが、母親の出身である地元名門高校を受験失敗します。
そこからなにをやってもうまくいかない、暗転した人生暗黒期が何年も続くのですが、何がつらかったかというと、
「一番喜ばせたかった人を、一番喜ばせられるはずの局面で失敗して喜ばせられなかった罪悪感だったんだ」という気づき。
他者を喜ばせるとか、利他というワードは、50代に入ってからの私のとても心を惹くトピックで、わたしも人生後半に入って、自分のことだけでなく、他人のためになることが自分の喜びになることがわかってきたんだなぁと思っていました。
これって成熟したってこと?なんて思ってました。
でもその根幹には、母親に喜ばれたかった、それもピュアな想いではなく、自分自身が褒められたかった、承認されたかったという想いがあったのだという気づき。
メインセッションにもどって、この体験をうまく言語化できたわけではないのですが、オンラインの向こうで、じぶんの気づきをみんなに温かく受容されていることを感じました。
そしてそのときはまだ混乱していて、コメント自体はあまり覚えていませんが、ありさんがまたこの上なく大きな温かな受容と承認をくださって、安堵したのを覚えています。
コーチングとカウンセリングは、はっきりここからここまでが守備範囲というような区切りがあるわけではなく、コーチングの過程で過去の体験が語られることは自然なことだし、そのプロセス自体が素晴らしいし、美しいのです…というような表現だったと思います。
わたしが知っているカウンセリングだったら、そこで改めて母親との葛藤に取り組む…というスタイルになるのかもしれません。
でも、コーチングではそこに焦点をあてません。
過去にそんな想いがあったことに気づいたことには意味があると思ったけれども、今の年老いた母親との間にその葛藤を持ちこむことは、恐ろしく消耗することで、前向きでも生産的でもないと私自身が思っていて、そこに焦点をあてることを望んでいないからです。
自己基盤が安定していて、現在の生活に満足しているわたしも、母からの評価や承認をいまでもどこかで求めているわたしもわたしで並立していて矛盾しない。
そこを深掘りせずに、褒められなくてもやりたいと思うことをやる。
『他者を喜ばせる』ことについて、ワークの前後ではささやかながら自己変容がありました。
そしてそれは間違いなく、プレゼントの辞書を喜べなかった少女から惹起されたものです。
その少女がその痛みを忘れず、成長して乗り越えてもなお、その痛みを排除せず含有した場を創ってくれたからこそ、心理的安全性のなかで安心して過去の痛みを思い出し、再定義できたのだと思います。
同じ体験でも肯定的に意味づけが変わる。
コーチングは勝っている人がより大きく勝つためのもの、または強い人がもっと強くなるためのもののように思っていました。
陽のための陽。
でも、ウェルビーイングコーチングは、弱くやわらかいもののために存在しているようにわたしは感じています。
陽のための陰。
弱いけれども強いもの。やわらかいけど芯があるもの。
華奢だけれども、確固としているもの。
陰陽互根。
代表のありさんが体現されているものそのものがウェルビーイングです。
陰中の陽であり、陽中の陰であり、それが太極図のようによくめぐり、よく流れている。
陰陽消長。
絶え間ない瑞々しい動的平衡を支援するポジティブなストローク。
わたしにとってはそれが心理療法です。
心理療法としてのウェルビーイングコーチング、お薦めします。