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純粋な好奇心と下心

高校3年生の塾帰り。時刻は夜の10時をまわっている。
僕は意気揚々と自転車のペダルを漕いでいた。夜が好きだったのもあるし,空腹を満たす目途がついたというのもあるが,それ以上に僕を高揚させるのは「帰る」という行為そのものだった。
当時の僕の嫌いなものランキング1位が塾だった。因みに,2位は勉強。
だから僕は塾から家に帰るまでの15分間がたまらなく好きだった。


その日も,鼻歌交じりにペダルを漕いでいた。勉強以外のことが考えたくて,頭の中で詩作にふけったりしていた。だから,前を走っている中学生くらいの男の子が,急に立ち止まったことに気づくのが遅れた。
危うく衝突しそうになって,僕は「うわっ」という情けない声を漏らしながら停止した。少年は僕の方を少し見て,軽く頭を下げた。
僕もそれに倣って頭を下げて通り過ぎた。しかし,明らかに年下で,気弱そうな彼に怯んで頭を下げた自分が少しだけ情けなくなって,プライドを保つために,僕は牽制の視線を彼に向けた。

しかし,彼は既に僕を見ていなかった。
その視線は,手元の物体に注がれていた。
それは,さっき立ち止まった時に拾ったものだろう。赤と白の縞々模様。大きさは1ℓペットボトルの半分ほどで,少しくびれた円柱形。

『TENGAだ!!!!!』

僕は心の中で叫んでいた。興奮,というより驚愕。
さっきまで頭の中で紡いでいた詩は記憶からブッ飛んだ。
もし僕が先に見つけていたら,その写真に『ウォーリーをさがせ』と添えて友人に送りつけていただろう。(クソ面白いと思う。多分既読スルーされるけど。)
しかしその少年の目からは,そのような「面白い!!」というような気配は感じられなかった。あったのは,純粋な好奇心と下心。
多分,初めて実物を触ったのだろう。生理的な嫌悪感を上回る程の興奮が彼を支配していたように見えた。そうでなければあんなモノは触れまい。

僕は彼が不安になった。「汚いから捨てなさい!」と言いたかった。しかし,できなかった。中学生の頃,通学路に落ちていたエロ本に興奮していた自分を思いだしたからだ。あの時,静観してくれた真摯な大人達がいたからこそ,今の僕がある。
だから僕は彼に気づかれぬように静かにその場を去った。


僕はさっきまで自分が居た,小さな箱の事を思い返した。一つでも多くの英単語を暗記する。模試で良い点を取る。いい大学に行く。あの箱の中には,そんな思いを抱いた人が大量に押し込まれている。僕は勉強が嫌いだが,それ以上に塾が嫌いだ。「他人の事なんて気に留めている暇は無い。」そんな純粋でギラついた目をしている同年代の彼らに囲まれることが怖かったのだ。
きっと彼らはいい大学に進学し,新しくできた友人を家に呼んで一晩中語り合うんだろう。『あの講義は出欠取らないからお得』だとか,『単位落としまくったから後期は頑張る』とか,『バイト先の店長がウザい』とか,『あの子に彼氏はいるのだろうか』とか,そういった楽し気な会話を未来に思い描いているのだろう。
大学デビューするためだろうが,自分のやりたい事を見つけるためだろうが,医者になるためだろうが,根底にある思いは変わらない。『理想の未来を実現するために時間と労力を投資する』ただれだけ。
彼等は,未来を見据え,躊躇なく今を消費することが出来る大人の眼をしている。

僕の眼はずっと子供のままだ。
「今この瞬間が楽しければそれでいい。」という無謀な態度。
「難しいことは考えたくない」という,愚かな信念。
未来に対する展望を築き上げることよりも,ふと湧き出た空想に意識を奪われてしまう。
そんな自分に嫌気がさし,大人になりたいと望んでいるが,それを拒んでいるのも僕自身だ。


僕はペダルを漕いだ。いつものように「どうしようもない餓鬼だなぁ。」と,自分を嘲笑しながら。しかし,この日の僕はいつもと違うことが一つだけあった。
僕は一人の少年の冒険を見守った。冷やかしたり講釈を垂れたりすることもなく,静観した。僕は心の底から,彼の未来が健全であることを祈っていた。
自分より未熟な存在の冒険を,そっと見守るということ。それはきっと,勉強ができるということよりも大切で尊いことだ。あの時,僕は確かに『未来を案じる大人の眼』をしていたのだ!!(多分)


星ヶ丘は夜になっても絢爛としている。その喧騒を背中に感じながら,西山の坂を下る。夜風がいつもより気持ちよく感じた。
今なら,良い詩が書けそうだと思った。

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