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【オトナになることのうた】米津玄師 その2●大人になりたい二人が愛を唄う「雨の街路に夜光蟲」
冬は鍋をよく作ります。
今週はまず、とり野菜みそを使った鍋を。この鍋の素がおいしくてね。東村アキコ先生の影響もちょっとある。
このCMがやっていた頃から東京のスーパーでも並ぶようになった気がします。毎年数回は作るのですが、今月は『かくかくしかじか』を読んでたのもありましてな。あれは東村先生版『まんが道』……じゃないか。青春物語? 映画化されますね。
で、鍋ですが、本日はすき焼きでした。いいお肉をもらったので、それに追い肉をしてね。車麩を戻したり、白菜やゴボウを切ったり。割り下を自作して。
僕はすき焼きは大好きで、外で食べるのもいけます。今半とか、また行きたいな~。
しかしスーパーに行くと、お米も、さらに白菜など葉物野菜もものすごく値上がりしてて、もう泣けてくる。まさかこんな物価高になろうとは。頼むよ、政治家のみなさん。白菜を鍋のために切ってみてよ。
ところで、先日はブラーの映画の試写を観ました。良かった!
再始動にあたってのニューアルバム『ザ・バラッド・オブ・ダーレン』の制作と、その後のツアー、そしてウェンブリースタジアムに向かっていく日々が追われているわけですが、50代を迎えたメンバーたちのそれぞれの姿がすごく自然に収められていて、一緒に高まったり、痛い思いになったり。90年代のデビューからブリット・ポップの狂騒時代の回想もいい案配で挟み込まれ、ああいう時があり、それぞれが離れてる時期もあり、でも今またこうして集まったという背景がまた彼らの生き方や人生を感じさせてくれて。
音楽もののドキュメンタリー映像って、ものすごく監督というか、対象のそばでカメラを回す人の見方や感性、価値観が出ますね。これはかなりいい作品。
で、ライヴの熱狂もありつつ、だいぶエモい場面だってあるわけですが、しかしそれを過剰に盛り立てすぎず、バンドをクールに捉えているのがブラーらしくて。それも良かった。
同時に、そのウェンブリーのコンサート映画も公開されます。どちらもUKロック好き、ロック・バンド好きの方なら、ぜひ! 鑑賞をおすすめします。
1月31日から公開です。
では米津玄師の2回目です。
「リビングデッド・ユース」、そして少年の心に寄り添うことを意識したメジャー初期
デビューアルバム『diorama』で音楽ファンに存在を知らしめた米津玄師は、その後、活動の場をメジャーに移す。2013年からのリリース元はユニバーサルミュージック内のユニバーサルシグマとなり、ここから作品を重ねていった。
最初のアルバム『diorama』で見せたハードでトガっていて皮肉屋っぽい作風も健在ではあるが、歌詞も曲調もそうしたものから徐々に広がりを見せていく。
この一連の曲たちの中で、とくに気になったのは「リビングデッド・ユース」。直訳すると、「生きた屍だった若き日」というところだろうか。自分の青春時代を振り返った曲である。
この曲についてのインタビューがある。彼は23歳になっていた。
これは自分の小学生・中学生くらいのことを思い返しながら作った曲ですね。その頃はすごく鬱屈としてたし、今あえて言っている「呪い」とは違って、ほんとに呪われてるんじゃないかって思ってた時期があったんです。その頃の自分を思い返して、それを肯定したいっていうか、ちゃんと「それでもいいんだ」っていうことを、昔の自分に言ってやりたかったっていうのがすごく大きくて。
──この曲はアルバムの中でも大事な曲ですか?
はい。この曲は最後にできたんです。最後の最後まで作り続けたいと思って。昔の自分を許したかったし、昔の自分に許されたかったっていうのもあるんですね。それをちゃんと、子供にもわかるような言葉とメロディとリズムで作ろうと思って。そうすると、やっぱり基準になるのは自分の子供の頃の記憶なんです。そういうものに頼らざるを得ない。子供の頃の自分はこういう言葉、こういう音で許してくれるだろうかって考えながら作ってました。
これが2014年の春のこと。メジャーデビューしてそろそろ1年が経とうという段階で、米津は大きな変化をしていってるように見て取れる。呪われていると感じていた10代を肯定していきたいという思い。
言い換えればその間は、そしてその後しばらくは、中高時代を素直に肯定できなかったということである。
この青春時代に抱えた鬱屈や屈折感は、米津玄師というアーティストを理解する上で、非常に大きなポイントになっているはずだ。
ただ、この2014年は彼を支持するファンの数がどんどん増えていった時期で、ライヴをやってほしいという要望も多く寄せられていたと思う。
当時リリースした「アイネクライネ」は、そうした状況もあって生まれた名曲だ。歌詞は<あなた><あたし>という表現で構成されていて、その中には米津らしい攻撃性も少し見えるが、ここには相手に対して強く、深く、優しく関わりたいと言う思いがあふれている。ポップでウォームな曲調ともども、本当にいい曲だ。
そして同年4月、メジャーでの第1作目となるアルバム『YANKEE』が登場する。
このアルバムについての、彼の発言を探ってみた。
特徴的なのは、ここでも小中学生を意識した発言が見られること。
やっぱり小学生や中学生くらいのときに、邦楽ロックとかアニメーションとかを手に取って、体の内側から裏返るような衝撃を受けた記憶っていうのがあるんですね。そういうものは今なお好きですし、やっぱりものすごいエネルギーを持っていると思いますし。そういうものが作りたいという思いは強いです。子供の頃の自分が本当に熱狂したものを思い返しながら、自分の曲もそうであってほしいなと考えて作ったので。
──10代に寄り添えるようなものであってほしい。
そうですね。10年後くらいになって、大人になった人が、自分の住んでた故郷を離れてどこかに働きに行くわけじゃないですか。そこで出会った同じような境遇の人たちが、同じ熱量でちゃんと共感し合えるようなもの。「あのときのあのアルバム、すごくよかったよね」ってちゃんと言い合えるようなものを作りたかったんですね。
――今はとにかくリスナーに何かを届けたいという思いが強かった?
米津:いろんな人に。主にこのアルバムで個人的に思ってたのは、子供に対して。小学生、中学生くらいの子たちに聴いてほしい。彼らが喜んでくれるかどうか、許してくれるかどうかというのを考えながら作りましたね。
――彼らが最初に夢中になれるポップミュージック。
米津:そういう存在でありたいなって思います。
――ただ、一方で大人にも届くような気もします。
米津:なんか、小中学生の子供に対するあこがれがありますよね。子供って頭もいいし感性も豊かだし。そういう子たちに受け入れてもらえるというのは、凄く幸せなものかなって。
――ご自身も子供の部分を持っていると思いますか?
米津:持ってたいと……思うんですけどね(笑)。
このように当時の米津は、世の小学生や中学生に対する思いをストレートに明かしている。そこには自身の少年時代を重ね合わせているところが大きそうだ。
自分が世に出ることができて、少しずつ認められるようになってきたためなのだろうか。おそらくは以前の、より純粋でまっすぐだった少年期を思い返すことが多かったのだろう。
幸運なことに僕はこのしばらくあと、2014年の12月に米津玄師のライヴを初めて観ている(リキッドルームebisuでの「米津玄師 LIVE "帰りの会・続編"」)。それまでに彼は数回ほどパフォーマンスをしていたとはいえ、何年もちゃんとしたライヴをやってこなかったとは思えないほどしっかりした内容だった。これには10代からバンドで活動していた時があった分、ステージに立つ経験値自体がそれなりにあったことも関係しているのだろう。気になったのは話す声がちょっとこもり気味なので、MCがやや聞こえづらくなる場面があったことぐらいだった。そして前髪を全部下ろしているので、表情がよくわからないようにしているのもこの人のスタイルなのだろうか、と思った覚えもある。
童心に満ちた「こころにくだもの」と死生観が込められた「雨の街路に夜光蟲」
2015年に入っても米津は精力的に制作を続けた。リスナーの元へ、新曲が届けられていった。
「アンビリーバーズ」は僕のフェイバリットの曲である。
このシングルをリリースする前、米津は下のようなツイートを残している。カップリング曲「こころにくだもの」についての内容だ。
「こころにくだもの」
— 米津玄師 ハチ (@hachi_08) September 2, 2015
最近よく子供のころを思い出す。こころもからだも大きくなったけど、その分どうにも満たされないものが増えていくような気分になる瞬間がある。不安なときほど明るい言葉を繰り返すのは、その言葉に宿る思い出に縋っているから。この曲はアレンジにほとんど悩まなかった。
最近よく子供のころを思い出す。こころもからだも大きくなったけど、その分どうにも満たされないものが増えていくような気分になる瞬間がある。不安なときほど明るい言葉を繰り返すのは、その言葉に宿る思い出に縋っているから。この曲はアレンジにほとんど悩まなかった。
童心が伝わってくる、というか、まるで童謡のような歌である。果物の名前が無邪気に唄われているところなどはNHKの『みんなのうた』に似合いそうな純粋さと無垢さがうかがえる。そう、のちの「パプリカ」に結び付くような。
これはめちゃくちゃすぐできた曲なんですね。そのわりに自分ではものすごく気に入っていて。自分の個人的な思い出を掘り起こしながら作った曲です。ここ最近、昔のことをよく思い出すんですよ。子供の頃の出来事とか子供の頃住んでた街とか、そういうものを夢で見たりもして。いろんなことがあの頃とは変わってしまったって思うんです。子供の頃は見るものすべてが新鮮だったし、住んでる世界が狭いから、周りのものに対する好奇心もすごくあった。でも今はそういうものがどんどん少なくなってきて、新しく手に取るものを見ても「これは昔のものの繰り返しだな」とか共通するものが透けて見えるようになってきた。そういうことを思って作りました。
ここまでの数年間に見られた自身の少年期を見つめ直す動きは、まだ続いていたということだろうか。しかもこの歌では、それがいっそう純度の高い領域に入っている。
そして10月にメジャー2作目、通算で3枚目のアルバム『Bremen』が発表される。
このアルバムの中で注目したいのは、「雨の街路に夜光蟲」。
愛を唄う、かけがえのない関係のふたりが、自分たちのことを<僕らはただ大人になりたくて 背伸びをして/チグハグな言葉を交わしあって 笑いあったんだ>と綴った箇所があるからだ。そして未来の自分たちについても。
これも、あたたかみを感じるロック・サウンドである。
ただし米津はこの歌について、こんなふうにも語っている。
「死に対する哲学がないと生きることもままならないって北野武が言ってて。この曲もものすごく死を見つめている曲だなと思う」(“雨の街路に夜光蟲”解説より)
(『ロッキング・オン・ジャパン』2015年12月号より)
アルバムのジャケットにハートを掲げていることで、彼の向いているベクトルもずいぶん変わったのかな……と思いきや、この歌では死への意識があるというのだ。いや、これは死生観と言うべきだろう。
そういう視点で歌詞を見てみると<悲しい歌を塗りつぶすように>とか<消えたい時も気持ちいい時も>など、楽観視できない感覚も描写されている。
そこまで感じてしまうと、せつなさや悲しみの度合いがぐっと増してくる。愛し合うからこそ、この今ある生の終わりというものが、そっと浮かんでくる。
当時の米津は24歳。
僕は思う。人間にはそれぞれに自分の幼少期や少年期をつい振り返りたくなる時期が訪れることがあると。昔の自分はどんなだったかな? どんなことが好きだったかな? というように。僕個人のことを言わせてもらうと、それは20代の半ばから後半にかけて訪れた。
しかし米津はこの20代半ばにかかるまでの数年のうちで、それを……作品作りを通しての自分の少年時代の振り返りを、かなりやってきている。こうなった理由は当人に聞かないとわからないが、僕が想像するに、彼は創作に向かい続ける中で、かなりの内省と、かなりの自己分析を行ってきたのだと思う。とくに米津玄師となって以降は。それゆえに、歌詞の創作において、自分の幼かった頃、少年だった頃の原風景や感覚をたくさん呼び覚まし、何度も頭や皮膚感覚に反芻させてきたのではないだろうか。
そして、もうひとつ、思う。
子供の頃、純粋なままに生きていた米津玄師は……やがて時を経て、20代に差しかかっていく頃、大人になりたい、大人にならないくちゃ、と思う若者になっていた。
ただ、そこで、どう成長していくべきか。どんな大人になればいいのか。どんなふうに大人になっていけばいいのか。そんな命題を前にしながら、自分の表現に真摯に臨んでいたのではないだろうか。時にはとてもナチュラルに、時にはひどく苦しみながら。
僕はそんなふうに考えている。
<米津玄師 その3 に続く>
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お好みダイニング カトレヤ上野松坂屋にて
洋食セット、2200円。
そうね昭和の頃のこういうのは
のちにファミレスに移行したのだろうな…と、
社会勉強にもなりました
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