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【オトナになることのうた】山下達郎 その3●少年性とは、果たして

日曜に衆議院議員選挙がありました。自民過半数割れは、元より想定内だったという見方あり。なるほど。しかし裏金問題があっても当選する候補がいる。ぷりぷり。

野球界では、ドラフト会議に日本シリーズ、アメリカじゃワールドシリーズ中の大谷さんの亜脱臼と、いろいろありましたね。
そのメジャーのほうは、ポストシーズンの試合をテイラー・スウィフトやビリー・アイリッシュが観に来ていたり。華やかですな。

しかしもうすぐシーズンオフ。ちょっと寂しいね。

僕は、とある原稿書きのために調査を進めつつ、さらに業界の大先輩にお話を聞く仕事もいただきながら……その合間に、家族で上野に大道芸を観に行ったりしました。ソランポ・ソランが良かったですね。まさにエンターテイメント。

森田智博さんは東京五輪の閉会式に出た方です。中継画面の中に見つけた。


ほかには、映画『戦場にかける橋』を鑑賞。1957年公開、日本は敗戦国だなぁという描写のされ方でしたね。

昔の大作映画は話の経過がゆっくりめで、それはテレビもない時代だけに、映画(とラジオ)がエンタメの主流だったことを思わせます。で、なんだか当時は大作ほど名画だという評価を得ている感もありますね。お金をかけて破格のスケールの作品を世に出すのを盛んに進めた時代だったからだろうけど。

あとは今OA中のドラマ『それぞれの孤独のグルメ』が予想以上に面白いです。企画プロデュースは主演の松重豊自身で、これまでのあのドラマを踏襲した作りでありながら、毎回のゲストそれぞれの存在感がうまく絡められています。それが変化球的に効いている。これが実現してるのは、たぶんテレ東開局60周年にまつわる企画ドラマゆえだろうけど。

で、実はこれ以前に、来年公開予定の『孤独のグルメ』の映画が撮影されていて、この監督が松重さんなんです。おそらくはその撮影終了後に、ドラマのほうの制作にも松重さんが関わるのはどうか、という話になったのではと僕は読んでいます。

それでは、今回も山下達郎について。そして少年性というものについても、少し。

達郎がみたび少年性を見せた『Ray Of Hope』


『僕の中の少年』(1988年)、『アルチザン』(1991年)の2作で自らの少年性をテーマにした楽曲をリリースした達郎。以後の作品では、こうした傾向を持つ作風は、しばし落ち着きを見せる。

90年代に入ると彼は、『COZY』(1998年)、『ソノリテ』(2005年)と、オリジナルアルバムという単位で数えればインターバルが大きくなっていく。その中でも、作詞家として松本隆を招いたり、よりストレートなラブソングを唄ったりと、変化は起きている。

この2作では、たとえば前者に収録の「サウスバウンド#9」では幼い子供をたとえに出しながら童心の描写を織り込んだり。また後者に収められた「ラッキー・ガールに花束を」は、歌の主人公が大人になれない自分やひとりでいる孤独感をのぞかせる恋の歌である。ただ、それ以前のものと比較しても、ここでの少年性は大きなテーマとまでは言えない。

達郎の中に残る少年性。これがもう一度クローズアップされたのが、2011年発表のアルバム『Ray Of Hope』までの段階である。

本作で少年性という観点において注目すべきは、「僕らの夏の夢」(2009年シングル)、「街物語」(2010年シングル)、そしてアルバム収録曲の「NEVER GROW OLD」。

まず「僕らの夏の夢」は、映画『サマーウォーズ』(2009年/監督・細田守)の主題歌となった。
アニメーション映画の『サマーウォーズ』は、僕自身もその世界に入り込んでしまうほど楽しんだ。それだけに、達郎のこの曲も思い出深い。親戚が集まってワイワイやってるシーンには、自分の島根の実家や今は亡き祖父母の家を思い出したほどである。

「僕らの夏の夢」は、この『サマーウォーズ』に向けて書かれたバラード。僕が思うに、この歌を映画に当て書きしたことで、達郎は自身の少年性にまたも向き合い、自らの内面を掘り起こし直すことになったのではないだろうか。
唄われているのは、未来、奇跡、それに過去の大戦における零戦のこと……。アニメのストーリーに寄り添うようでありながら、こうした達郎独自の表現やイメージも重ねられている。


その翌2010年に発表された「街物語」は、子供から大人になること、それに愛情について唄われるシティ・ポップだ。これもまた大人の視線からの歌である。

達郎はベストアルバム『OPUS ALL TIME BEST 1975-2012』で、この歌についてこう綴っている。

私のような東京生まれ育ちの者にとって、下町が保ち続けている情緒は、かけがえのない精神的拠り所だ。せまい路地を舞台にした若い人たちの恋心を、私の世代から見つめると、そこには数十年前の私がいる。長い年月や年齢の壁を軽々と超える、同じ街を生きる者の変わらぬ息づかい。それを歌にしたかった。

そしてもう1曲、アルバムでは2曲目に配された「NEVER GROW OLD」。胸の奥にいた自分を思い返すことで、夢や孤独、仲間たち、夏の記憶などが唄われる。二度と滅びないとか永遠とか、願いのような感情が込められながら、タイトルのような、私たちは決して老いないという意志……言い換えれば、若いまま(の心?)でいようじゃないか、という言葉が綴られていく。
大人が作り、大人が唄う歌に違いない。その向こう側では、子供の頃の自分たちの像がよぎっている。

本アルバムに関係する記事では、達郎本人へのこのインタビューを紹介したい。いくつか抜粋していく。

--- 毎回アルバムを作る時は、世の中の状況を鑑み、それに対して歌うことを決めるというアプローチで楽曲が生まれてきたのでしょうか?

いや、30代までは基本的には私小説ですね。世の中とはあまり関係のない。自分生活の中での心象風景。人の心象を表現しようと思った事はほとんどないですね。自分が見たり聴いたり、感じたりしたもの、風とか自然現象に対してもそうですし、人に対してもそう。例えば「さよなら夏の日」なんてのは、高校時代にガールフレンドとプールに行った体験に基づいたものだし、そういう個人的な体験の歌が多かったです。

今回に関しては、それとは違って、言ってみれば小説家のような感じですね。人が体験した事、特にここ数年は、30歳前後の自分と親子くらいの世代との交流が多くて、彼らの体験談からインスパイアされて作った曲が何曲かあります。「プロポーズ」っていう楽曲は、僕のオフィスの女子社員が結婚する時に相手の男性が言った台詞がとっても素敵でね。そういう話を基にして書いた曲で。「街物語」も僕の知り合いの息子が女の子にフラれた話にインスパイアされて作った。そういうような作り方は今までなかったので。それは彼らの若いエネルギーに触発されたというか。若い力っていうのはなかなかいいですよ。


ここでも「街物語」の話が出ている。
このインタビューは、達郎がとても率直に話しているのが伝わってくるし、そうした言葉を誠実に受け止めながら彼に近づいていく取材者サイドの姿勢がとてもいい。
その中に、達郎の歌の少年性について訊いている箇所がある。

--- このアルバムに収録されている「NEVER GROW OLD」「僕らの夏の夢」や、過去の「僕の中の少年」等、“自分の中にある少年性”のようなものが達郎さんにとってテーマの一つなのかなと思うのですがいかがでしょうか?

モラトリアム世代っていう言葉もある通り、僕らの世代はみんなオトナコドモというか、Don’t Trust Over 30の世代だから。大人になりたくない、いつまでもジュブナイルでいたいっていうそういう人ばっかりなんですよね。僕もどっちかというとそういうタイプなんだけど、同時に否応なしに大人ではあるわけですよ。それを繋いでくれるのは子供でね。子供との生活のおかげで、またレコード会社の役員を長い間やってたりもしたので、ある程度の社会性は持っているつもりです。でもやっぱりミュージシャンとして、もの造りを突き詰めるという事はある意味、気が狂うというか、その社会性とは別の所にいる。つまりそういう両面性があるんですね。だから、若い頃から“少年性”というものに憧れはあったんですけど、当然ながらそういう事を喚起してくれるファクターって歳をとるごとに減ってくるんです。


モラトリアム世代、オトナコドモ、再びの“Don’t Trust Over 30”、そして「大人になりたくない」、ジュブナイル……。キーワードがずらりである。

ともあれ達郎は『Ray Of Light』でみたび少年性というテーマに向かった。見ようによっては、『僕の中の少年』のあとも引きずり続けた、あるいは、ひと区切りつけることなどできなかった、そんなふうにも感じる。
むしろ、大人になった自分を自覚するほど、その事実を痛感するほど、子供だった頃の自分のことに立ち返ってしまう。そんなことはなかっただろうか。これは僕の推察である。

少年性というものについて、少しだけ考えてみる


今回こうして達郎の作品たちを追い、曲を聴きながら、歌詞を見つめながら、思ったことがある。

なぜ達郎は、『僕の中の少年』で一度終わったはずの、ひと区切りつけたはずの少年性の周りをしばらく歩き続けたのか。
『Ray Of Hope』の時点での彼は58歳である。子供から大人になったどころか、老境に差しかかろうとする年代。中年、壮年、あるいは老人になったとしても、少年性というやつは心のどこかに存在するものなのだろうか。残っているものなのだろうか。そしてつい、こだわり続けてしまうものなのだろうか。

そして、それ以前に。

そもそも少年性とは、いったい何なんだろう?

たとえば、映画『スタンド・バイ・ミー』のような?

あるいは、宮沢賢治の作品のような?

もしくは……スピッツや、あがた森魚の歌のような?

少年性。
この言葉は自分も時おり使ってきたし、さまざまなカルチャーの評論や話の中でも出てくることが多い言い方である。もちろん音楽でも、文学や映画作品を語る中でも出てくるワードだ。
それは先ほどの達郎の言葉にあったように、ジュブナイルやオトナコドモという言葉ともつながっているところがある。
つまりは、少年と呼ばれる若い男子が持つ感覚、感性、感情、衝動、価値観、行動原理、といったものが生み出す何かということか。

ちなみに対象が女性であれば、そこで少女性と呼ぶものもあるようだ。ただ、それはさすがに少年性とは性質を異にするもので、深い解析が必要になりそうなので、ここでは触れないでおく。

ところで少年性となれば、そこで少年、つまり若い男子のみの感覚という部分も、ちょっと気になる。
たとえば年齢を重ねた人間のそれであれば、どう呼ぶのか。……親父性!? ちょっと気持ち悪いか。大人性? 中年性? 老年性ともなると…何かの症状を指しそうだ。閑話休題。

いずれにしても少年性は、その言葉の響きと、示す何かの根っこにある純粋さとかストレートなものに関係していて、どこか尊いもの、侵されてはならないものとされている節も感じる。言わば、やや美化されているきらいもある気もするのだ。
ただ、人間が若い頃にしか持ちえないもの、若気の至りゆえにできることは、たしかに多々あると思う。

少年性とは、いいものなのか。純粋で、キレイで、汚れのないものなのか。それとも違うのか。

これについて、今日ここで拙速に結論を出そうとは思わない。いや、出すことなんて不可能な気もする。そしてまだ、その入り口ですらない。
ただ、これは意識していく必要がある命題のように、僕は捉えている。

今回のところは、そこに気持ちを向けさせてくれた山下達郎と彼の諸作品に敬意を表して、ひとまず終わろうと思う。


とん久 アトレ上野店にて、
上ひれかつ定食大吟醸(二個)、1529円。
定食にことごとく「上」が付いている!
それもむべなるかな、なお味でした

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青木 優
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