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【百年ニュース】1921(大正10)10月9日(日) 筑豊の炭鉱王,伊藤伝右衛門(60)と燁子すなわち柳原白蓮(35)夫妻がそろって福岡から東京に向かう。夫は知らなかったが,白蓮は過去10年間に与えられた衣類・調度品の始末を済ませ,宝石類は密かに東京から送り返すため携行していた。

「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門(60)と燁子あきこすなわち柳原白蓮(35)の夫妻がそろって福岡の自宅を起ち、東京に向かいました。夫である伝右衛門はそのとき知る由もありませんでしたが,白蓮は伝右衛門のもとを出奔する覚悟を決め,過去10年間に夫から与えられた衣類・調度品の始末を全て済ませ,また宝石類も密かに東京から伝右衛門のもとに送り返すため携行していました。

柳原白蓮,本名柳原燁子あきこは,伯爵の柳原前光さきみつの次女になります。大正天皇の生母柳原愛子なるこは叔母になりますので,大正天皇のいとこにあたります。東洋英和女学院を卒業後,北小路子爵家の跡取り息子である北小路資武すけたけと結婚しました。このとき燁子あきこは15歳,夫の北小路資武すけたけは22歳で,大変に粗暴な人物であり,今でいえばDVということになりますが,暴力を振るわれることも多かったと言います。5年後に離婚。燁子あきこは20歳で柳原家に戻りました。

そしてさらに5年後,燁子あきこは25歳になりましたが,新たな縁談が舞い込みました。 「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門で当時50歳でした。25歳と50歳なので年齢差は倍になりますが,伊藤伝右衛門は家柄を欲し,また柳原家のほうでは財力を欲した,と言われています。そして遠く離れた福岡県飯塚市の伊藤伝右衛門の家に嫁いでいった燁子あきこですが,伊藤家での生活に馴染めず,その思いを「和歌」に託して発表するようになります。そのときの燁子あきこの雅号が白蓮で,以後伊藤白蓮として文壇の知名度を得るようになりました。

そして結婚生活が10年経過し白蓮が35歳になったとき,宮崎滔天の息子で東京帝国大学の学生であった宮崎龍介と出会います。龍介は当時の左翼的思想団体であった新人会のメンバーでもあり,白蓮はその知性に惹かれるようになります。ふたりは700通にも及ぶラブレターを交わし,ついには1921(大正10)年8月,京都での逢瀬で白蓮が子供を身籠ることになりました。白蓮は夫の元を飛び出す決意を固め,出奔の準備を整えると,百年前の今日,夫と共に東京に向かって出発しました。

10月22日には,新聞紙上で公開の絶縁状を発表。劇場型の離婚劇で世論を味方につけることで,夫の伊藤伝右衛門が姦通罪で白蓮と龍介を訴えることを封じる作戦に出ます。大きなスキャンダルとなり,兄の柳原義光は貴族院議員を辞職する羽目になりましたが,最終的には伊藤伝右衛門が口を閉ざすことで離婚が成立しました。華族の身分を離れた白蓮は,晴れて龍介と結婚。40歳のときには2人目の子供にも恵まれて,幸せに過ごすことになります。

晩年は緑内障で徐々に両目の視力を失いましたが,夫である龍介と娘夫婦の介護で穏やかに過ごしたと言います。1967(昭和42)年2月22日西池袋の自宅で死去。享年は81歳でした。白蓮を亡くした直後の龍介は『文芸春秋』6月号に「柳原白蓮との半世紀」という手記を寄せ,次のように振り返っています。

「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりは燁子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」

宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」『文藝春秋』1967(昭和42)年6月号創刊45周年記念号

そして宮崎龍介はその4年後,1971年1月23日に78歳で没しました。二人は神奈川県相模原市の顕鏡寺けんきょうじの墓地で眠っています。

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吉塚康一 Koichi Yoshizuka
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