自分を生きることに気兼ねを感じる理由
自分を表現することに躊躇する理由。
それは周りの反応を気にしたり、その応対に右往左往する自分に気兼ねしたり、気後れすることを気にかけているから。
そもそも『自分などが発信したとして何の意味があるの?』と疑問に思う。
そう周りを気にする気持ちはとてもよくわかる、でも自分を表現する際は、周りを気にかけたり、気兼ねは不要。周りにとっては、各々の反応を返すこと自体がそれぞれの表現となっているから。
ですから表現者は『自身の活動が周りの反応を促すという表現の機会となっているのだ』と考えられるようになれば周りの声が気にならなくなる。
ましてや自分の表現に何の意味があるのかなんて考える必要はない。
自分が自分らしく表現しているのと同じように、周りの人たちも自分らしくあるためにその反応を返しているだけなのだよ、ということ。
つまり表現者は、自分を表現することだけにすべてをぶつけるだけで十分であり、その結果を気にする行為は単なる執着に他ならないのです。
「頑張ている私を見て!」
「このアイデアは凄いでしょ!?」
「だからもっとイイネを頂戴よ!」
自分本来の表現の後には、他の誰からの評価も必要ない。
私たちはSNSで馴れ合いたいわけではない。
自分をただ表現したいだけなのだ。
何故ならそれこそが、自分を生きることに他ならないからだ。
行き過ぎた表現は過度の勤労となる
自分が自分を表現する際、社会や周りの人々にとって必要とされることをしようとか、求められていることが何かを考えてそれをする、はなからその必要はないということ。
それは勤労奉仕に属する行為であり、その行為に惹かれて携わって下さっている方々のパッション(情熱)。
自ずから社会や人々のために行動したいと思えないのであれば、それは自分とは無関係のことなのです。つまりは、自分が心からそうしたいと思うこと以外はしなくていいのだ。
何故なら、自分自身が心からそうしたいと思った行為こそが、世間から求められていることだから。大半の人々がそのことに気づくことができず、日々無駄な時間を使って外の情報をかき集めます。
『どうすればいい?』『どうしたいの?』
そのように正解を求めている時点で、それは欲しがっている行為。
インターネットの時代、我先にとお金を稼ぐ方法や、効率の良い勉強方法、偉くなるためのコツなどといった、自分とは分不相応の貪欲の心です。
仮にそうした自分とは無関係の情報を得たとして、それらを実際に実践したとして、結果は必ず『何にもならない』ということがわかるだけ。
わかる、気づくというのは重要なこと、しかしその行為からは、自分自身が求める結果や答えは導き出せないということです。
そうして自らの豊かさのために情報を求め、行動してその次に来るのが、何故自分自身が日々強く思う願望が実現しないのかという憤る心。
この段階で人間は必ず頑張っている自分自身を認めてくれない周りに怒りの感情を抱く。
でも自身の思いを含めたすべては、何の意味もないこと。少なくともこの地球においては、行動表現のみが大きな意味を持っているからです。
バズという渦中にいる天才たち
バズっている人は、誰もがそうなれることを実際に見せてくれるだけではなく、それが私たちにとってのバズではないことを同時に教えてくれる。
だからこそ私たちは、自分にとってのバズとはなんなのかを探す旅をしている最中。そのために周りのことが気になっているだけで、自分がなにかに囚われて周りを気にしているわけではないのだ。
ちょっと悲しいことだけれど、これは人間にとって当たり前の習性。
自分を生きるという、誰もがすでに歩んでいる道筋を見失いさまよっている状況こそが今の現実社会。
私たちという自我は何も知らず、ゾンビのようにさまよっている。だからせめてバズを起こし、自分という人間性を呼び覚まそうとするのです。
つまりは自分がゾンビではなく、人間であったのだということを思い出すことがこの世の答えの一つ。であれば、いちいち周りを巻き込んでバズを巻き起こす必要などないことに気付けるはず。
だって既に私たちは、わたしたちであり、完全無欠の人間なのですから。
そのことを今この瞬間もバズを起こしているインフルエンサーたちが教えてくれているのです。
私たちは既に完璧な人間。
生きる躯(ゾンビ)などではないのです。
タイトルイラスト
ふうちゃんよりお借りしています。
ありがとうございます。
著者プロフィール
私、ナスノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。