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所作とルーティン

古くから一部の人々によって重要視されてきた『所作』。しかし近代においては、軽視されているというよりも、完全に蚊帳の外という感じ。みんなで決まった動きをしたりするとなんだか気恥ずかしい。のだけれど、一体なぜなのかはわからない。

かくいう私はというと、なんでも決めてから動くというのが常。子供のころから、謎にこだわりのようなものが強く、年齢を重ねると共により強くなってきた。それら長年かけて身に付けてきた所作を、マイ・ルーティンと呼んで慈しんでいる。

今日はそんな私が思う所作についての話をしようと思う。

バトンタッチされる所作

日本では古来より、あまねく所作が人から人へと引き継がれてきた。

剣技や空手の型、舞踊・演舞、相撲、能楽、歌舞伎。

所作といっても千差万別、体を大きく使うものばかりでもない。例えば文章における文法や絵画の技法や音楽の演奏法など。こうしてざっと思いつくだけでも数限りない型が継承され今に至る。

師事する相手の動きを同じように真似ることで、意味が後からだんだんとわかるというやり方。実践し体で覚えることで、その意味を悟るのだ。

そのため効率よく多くの弟子に伝授することが叶わず、どうしてもごくわずかな人たちだけの伝承にとどまる。その一方で、濃度の濃い状態で後世に残すこともできるという特性を持つ。

そうした特異性からは、むしろわずかに惹かれた人たちのみ理解し、引き継げれば十分であるという帰来すら感じる。このような側面を内包するゆえともすれば、伝統工芸や芸能の分野における閉鎖的な誤解を招く一因となっているのだろう。

本人たちからすれば、閉塞感など全く感じておらず、むしろ解放された心持でいられるというのに。

自分で決めるがゆえの自由

日頃より万事をあらかじめ決めておいて、自動化しルーティン化する、そうすることによって習慣化し、やがて慣習や慣例となる。これってなんだか堅苦しくもあり、古風で時代錯誤で重苦しく感じるけれども、それは誤り。

事前に決め、それらを毎日繰り返すことで身に付けてしまい、手癖となるまで磨き上げる。あえてそうすることによって、思考する煩わしさを排除し、未然にストレスを防ぎ、自分の創造性を妨げる要素を減らすのである。

所作は一見すると不自由そうにイメージされるが、実際は自由。
文字通り、自ら決めるが由の自由。
さらにいえば、所作は自分だけのためではない側面も持つ。

決まりごとを違えたとき、その意味を知っていればこそ、気づけることや理解できることがある。例えば、『気になる』には全く違う二つの意味がある。

片付ていないから気になるのと、普段と違うから気になるのは違う。だからこそ、身綺麗にしたり、掃除や片付けなどをキチンと行うことの重要性がわかる。

意図的に違うことを演出し、場を盛り上げるとか。
あえて違ったことをして、わかる人にだけ伝えるとか。

そうした意味においていえば、いつも同じでつまらないというのは、己の創造性の欠如を認める行為に他ならない。同じ中からその都度面白さや美しさを見つけられるかは自分次第なのだ。

自分で決めていいんだと、自信をもって明日を生きられれば心も体も軽やかになれる。あるいは、何も決めなくてもいいんだという勇気が持てるようになる。

そんなことを思いながら本稿を締めくくりたい。

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なすの
ここまで読んでくれたことに感謝。 これからも書くね。

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